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山田孝雄
方丈記
岩波文庫

// <!--山田孝雄校訂『方丈記』
// 
//     * 岩波文庫(30-100-1)
// 
// 解題
// 
// 本書は鴨長明が日野山の閑居に於いて自己の感想を述べたるものにして、これによりて、吾人は作者の生活せし時代の状態と作者の境遇及び性格とを察するを得るなり。
// 
// 按ずるに作者の時代は天災地變ついで至りし時なるのみならず、歴史上の大轉囘期にあたりたれば、社會上に種々の缺陷を生じ、人事の轉變また甚しきものありしなり。されば世の無常を觀じ厭世主義に傾く者の生じ易きはいふを待たず。而して作者はその社會に於いて輕き意味にての敗者としての境遇にたてりしものと認めらる。かくの如き内外の種々の事情は作者をして世を遁るるに至らしめしならむ。
// 
// 作者は佛教の思想に基づきて、無常を觀じ、世を遁れたるものなれど、天を怨むるにもあらず、世を詛ふにもあらず、淡泊に世を離れて閑居し、消極的ながら自己の境地に一種の安慰を見出せり。さればその無常觀も厭世主義も共に徹底せざる觀あり。これ或は日本人が根柢に於いて樂天的なるのいたす所か。要するに本書によりて日本人の性格の消極的方面は或はあらはれたりとすとも積極的方面は恐らくは認め難き所ならむ。
// 
// 本書は隨筆と稱せらるれども、首尾一貫せる一篇の文にして他の隨筆が斷片的に感想を述べたる小篇の集まりに過ぎざるものと同一に論じうべきものにあらず。而して全編を通じて些のゆるみなく、讀者をして卷を措くこと能はざらしむるものあるはその手腕の平凡にあらざるを見るに足る。惟ふに本書は長明が、一夕、今を思ひ昔を顧みて、感慨に堪へざるあまり筆を呵して、一氣に草し了りたるものなるべく、その文章に生氣ありて人を動す力に富めるも亦、これが、〓〓(ていとう) 補綴の餘に出でしものにあらずして、一氣呵成の文たるが故なるべし。この書を評するもの、よくこの主眼點に眼を着くるを要す。
// 
// 本書は隨筆中の異彩としてわが文學史上に光を放てるのみならず、その文體も亦わが文學史上重要なる地位を占むるものなり。この文體は所謂和文漢文融和の文體の先驅をなせるものの一として爾後日本の文章の主なる潮流をなすに至れるものなり。この文體は上述の如く、漢文の特色を和文に混淆調和せる點に存するものなるが、本書の文體はよくこれに成功せるものにして、當時の同一系統に屬すべき海道記東關紀行等の文體に比して優に一頭地を拔けるものあるはこれこの作者の文才の偉大なるによるものといふべし。この文體は蓋し漢文の口調と敍法とを和文に應用したるものなるべきが、それが、生硬にも不調和にも感ぜられず、よく敍述の井然たると理路の明確なると聲調の輕快なるとありて、一言を以ていはば、簡潔の二字を以て評すべきものなり。而してこの特色は主として、漢文の聲調句法を善用したる點に存すといふべく、この特色の存することは、この作者の和漢の文章に精通せる學才が、その文才と相待つてはじめて功を奏したるによるものなるべし。單に、漢文の故事熟語等を和文に混淆せるに止まる生硬なる文章と同日を以て談ずべからざると共に、本書が一氣呵成して成れる點とを顧みてこの文の古今に希なる名文たる所以をも首肯しうべきなり。
// 本書の底本
// 
// 世に説をなすものありて方丈記を僞書とせり。この説の起る端をなすものは蓋し、流布本の末に附する
// 
//      月かげは入る山のはもつらかりき
//          たえぬひかりを見るよしもがな
// 
// といふ歌にあるべし。この歌は新勅撰集に載する源季廣の歌にして長明の詠にあらぬは明かなれば、これが、この方丈記と離るべからぬものなりとせば、方丈記は長明の作にあらずといふべきに至るは必然の數なりとす。然れども、この歌の附載なき方丈記少からず。扶桑拾葉集所引の異本これなり、家藏の古寫片假名本これなり、又余等が古典保存會にて複製し、大正十五年四月に國寶に指定せられたる京都府船井郡高原村字下山の大福光寺に藏する古寫本これなり。以上いづれも、この歌の記入なきものなり。又前田侯爵家に藏せらるる室町時代の古寫本にはおなじく、この歌を記載せぬが、卷末二枚許の白紙をおきて空也和讚の一節を記せり。これを以て考ふるに、方丈記を熟讀したる人が、おのづから無常を觀じたるあまりに、上の如き和歌和讚を記入せるものなるべきこと明かなりとす。されば、上述の歌の卷末に存することによりて方丈記を長明の作にあらずと論ずるが如きは、共に古書を談ずるに足らざるものといふべし。
// 
// 方丈記の長明の作たることは十訓抄の文によりて明かなり。十訓抄が信ぜらるる以上は、その文によりて、方丈記が長明の作たることは否定すべからず。而してその文中に曰はく、
// 
//     方丈記とてかなにて書置物をみれば、始の詞に行河のながれは絶ずしてしかももとの水にあらずといふ
// 
//     "川閲レ水以成レ川、水滔々而日度。世閲レ人而爲レ世、人冉々而行暮。" (文選)
// 
//     と云文をかけるよとおぼえていと哀なり。然而彼庵にもおりごとつぎ琵琶などを伴へり。念佛のひまゝゝには糸竹のすさびをおもひすてざりけるこそ、すきの程いとやさしけれ。
// 
// とあり。これを以て方丈記の長明の作たることは否定すべからず。されど、ここに今本は僞作にあらずやと思はしむる材料あり。そは異本と目せらるるもの二種世に傳はるによりてなり。一は故森洽藏氏の藏にして後東京帝國大學の藏となりし本にして、これには
// 
// 寫本者
// 長享二年戊申十二月十三日於宇多橋西本願院拭老眼雖爲寒中禿筆手龜鳥跡氷堅依爲大切寫之者也
//     佛子奠源
//     又次云
// 于時天文八年己亥正月廿五日於柞原安樂院南窓書之
//     隆忱
//     又次云
// 右之本喜多院源春坊隆堅得也寫是之人々五字一類之御廻向奉憑者也
// 慶長二十年葉月下旬
//     寶生院信盛書
// 
// とあり。而して森氏の寫本は慶長よりも遙に下れるものにして余は百年をも經過せぬ寫本と見たりしなり。他の一本は東京帝國大學國語研究室に藏したりし本にして、その奧書は
// 
// 方丈記者是祇翁之所持以長明自筆卷物寫之畢誠筐中之重寶也
// 延徳二年三月上旬
//     肖柏判
// 
// とあり。これも森本と甲乙なき程の寫本にしていづれもその奧書當時のものにはあらず。而してこの二本共に文章いたく流布の本と異にしてしかも頗る短き文なりとす。加之その二本亦文章異にして全く別種の本と目すべきなり。而してそれらの奧書によるときはいづれも信ずべきに似たりといへども、かの平家物語の大祕事に該當すべき平家物語補闕と名づくる書にて見る如く、南北朝以後往々古書の得がたき場合に何人か之に擬作して、以て自ら得々たる如き弊を見るものなれば、それらの異本も亦、これらの亞流ならずとは必せざるなり。この故に吾人は流布本方丈記の如きものが、決して僞書にあらざるべきは僞書説の勃興せし當時より主張せしものなるが、しかも、積極的に立證せむには、その頃の古寫本を以てすべきものにして、その本の出でざる限りはただ推論を以てするの止むを得ざる弱點存せりしが、幸にして大福光寺本の出現により、流布本の如き方丈記が、長明の原作たりしことを積極的に立證し得られたるなり。
// 
// 大福光寺本には年代を明記せるものなし。然れども、紙質、書體を以て推すに、長明の時代を降ること遠からぬものたることは否定すべからず。その奧に
// 
// 右一卷鴨長明自筆也
// 從西南院相傳之
// 寛元二年二月日
//     親快證之
// 
// とあり。親快は當時の醍醐寺の僧なるが、この識語果して親快の自著なりや否や疑を存すべき點あるものなるが、それが信ずべきものとしてもなほ、この本の長明自筆とするは不當なりとす。何となれば、明かに書寫に基づく誤脱と認むべきもの存すればなり。然りといへども、長明の時を去ること四五十年をも下らざるべき時代の書寫と見ゆれば、今日に於いて方丈記の最も信憑すべき本としては之を措いて他に求むべきにあらざるなり。
// 
// さてここに立ちかへり僞作説を見るに、その説を主唱せる張本は故藤岡作太郎氏なりと認めらるるが、著者が藤岡氏在世の頃主張せしといふ説を當時聞きしものと、その遺著に載するものとは異なる點ありて、遺著の方にはその項目の數減じてあるものなるが、それらにつきては既に内海弘藏氏が、その著方丈記評釋の序説中に論駁せられてあれば、吾人は今更蛇足を加ふる必要を感ぜず。要するに、かの遺著に載する程度の事を以て僞作説の成立するものとせば、世に存する著書の多くは大抵は冠履轉倒の詭辯を弄して僞書と論じ得べきものとならむ。これ蓋し、最初は異常なる見識にて大聲疾呼せしが、漸く反省するにつれて、その説の極端なるを自ら矯めたる如く見ゆるが、なほその僞作説を棄つること能はずしてかかる薄弱なる論據を固執せしものならむか。ことに藤岡氏が、流布本の方丈記の文を目して、後人が諸書の一部を〓〓(ていとう) 補綴して作成せりといふが如きは、この文章がさる小刀細工になれるものにあらずして一氣呵成の文章たることを認めざる論といふべく、文章の死活を解せざるも甚だしといふべし。
// 
// 次に方丈記を僞作なりといふ論據として、その結構並に文辭全く慶滋保胤の池亭記の模倣なり。この故に僞作なりとする野村八良氏の説あり。この説は一往理有るが如く見ゆれど、かく論ぜむには第一に
// 
//     * 長明の文章には方丈記の如き文あるべからず。
// 
// といふことを論證せざるべからず。今の世にして何人か長明の文はこの方丈記の如き文なるべきものにあらずといふことを立證しうるものあらむや。吾人が、方丈記を長明の作と認むるは古來の記載傳説に基づくものなり。これを外にして誰人が之を立證しうるものぞ。凡そ古來の傳説、信條を破らむには、動かすべからざる確證を示すにあらずば、誰人が之を信ぜむ。長明はかくの如き文をかくべき人にあらずと信ず。この故にこの文は長明の作にあらずとする如きことをば余が若し論ぜば、余は世人より狂せるかと問はるるに至らむ。次に野村氏は「若し長明が一廉の文章家にして又知者ならんには拙劣なる手段を取ること此の如くならんや」と論ぜり。余は、これが拙劣なる手段なりや否やは今姑く論ぜざるべきが、これも亦長明は必ず一廉の文章家にして知者たるべきことを要求せり。その長明が必ず一廉の文章家にして知者たるべきことは何によりて證せらるるべきものか。これ亦野村氏の主觀に止まるのみ。次にこの方丈記の文章をば余は上述の如く古今の名文と信ぜり。野村氏は拙劣なるかにいへり。但しこれはその手段の拙劣なるに止まりて文章の批評にあらずとせば、余は之を論せざるべきが、若し、文章が拙劣なりといふことをも含むものなりとせば、余はその意見には服すること能はざるなり。要するに野村氏は(第一) 池亭記により方丈記を書きたりといふことを強く主張し、(第二) これを拙劣なる手段と認め、(第三) 長明は大文章家にしてかかる拙劣なる手段をとらざりしものなり。この故に方丈記は僞書なりと主張せらるるものなりと認めらるるものなるが、その第三の點は野村氏の主觀に存することにして吾人の如何ともしうる所にあらざれば、今論ぜざるべきが、第二の拙劣なる手段といふ論に到りては大に論ずべき事あり。
// 
// 凡そ文學は時世の産物なり。その時世に即してはじめて、その時世の文學を論ずべきなり。平安朝はた鎌倉時代の文學も亦その時代の思潮に根ざせる所少からず。その時代の思潮を顧みず、大正昭和の思想を以て之を斷ぜば、必ずしも正鵠を得べしと限らざるべし。抑も、この方丈記の成れる頃の文學上の思想、はた一般の思想を顧るに、保元平治の頃よりして新社會の勃興せるものありといへども、なほ大勢は舊時のままにして、故實典故を重んぜし時代なり。而して文學に於いても亦然り。ことにこの頃の漢文學は、前代よりの流弊によりて一言一句典據によらざるものなく、新造の言語の如きは決して世に容れられざりしことは歴々として明かなり。この故に當時一文を草し、一章を綴らむとするものは事毎に、典據故實を基とせるものなり。而してこれを有するものは、その文章に權威ありと認められ、然らざるものは、世に顧みられざりしなり。この故に海道記東關紀行の如き生硬の文にても、當時はその故事典故の用ゐられてありしが爲に、世に認められしものなり。かの保元、平治、平家等に和漢の故事先蹤を吾人がうるさく思ふ程に臚列せるものも亦この必要より來りしものなり。若しこれをこれ思はずんばこの時代の文章を理解すること殆ど不可能なるべきものなり。從來の文學史家一人もこの點に想到せず。否想到せる人ありしならむが、その著書にはこゝに論到せるを見ず。又多くの註釋家も、かの池亭記を方丈記の粉本なりといひし人々も、何が故にかゝる事の生ぜしかを論ずるを見ず。これらはただ外形に拘泥して當時の精神に想到せざるの致す所なり。吾人を以ていはば、この方丈記の文は長明の腦中に存せし池亭記等の記憶が、その文を載せて迸り出でしに止まるものにして、長明が之を模倣せむと殊更に巧みしにあらざるべきなり。然れども、その特に巧まずして、ここに池亭記によりたりと考へらるまでにあらはれたることは、これこの方丈記をして當時の人口に膾炙するに至らしめし一の原因なりといふべきものにして、當時としては拙劣なる手段といはるべきものにあらずして、反對に巧妙なる手段なりといふ點を以て世の喝采を博したりしものたるべきなり。當時にありて一文一章を出して世に行はれむことを希ふものは故意にもかかる手段を講じたりしなり。かの日蓮上人の第一義諦を主張せし立正安國論を見ずや。その主張は先人未發の論なるべきが、その論文の結構はかの文選の西都賦東都賦等の形式によりしにあらずや。これ日蓮上人の巧妙なる手段にして、先づ、この手段によりて、讀者をして、その初頭に自己の説かむとすることに注意せしむべくせるものなり。又かの身延山御書の如きもこの方丈記の文章によれるものなることは著しきが、藤岡氏はこれをも身延山御書を剽竊して方丈記を僞作せりとはじめには論ぜし筈なるが、後に之を取消したりと見ゆるなり。若し野村氏の如く、かくの如きを拙劣なりとせば平安朝の漢文の如きはすべて拙劣ならざるものなく、平安朝鎌倉時代の和文の大部分もまた所謂拙劣なる手段によれるものとなるに到らむ。かの慶滋保胤の池亭記の如きも亦その粉本白樂天の池上篇にありて、その骨子をとりて之を潤色敷衍したりしものたることは二者を對照せば明かなるべし。即ち、吾人が典據ありと目する所は、野村氏の拙劣手段と目せらるる所なるが、余は世上一般の文學史家にこの一點を警告して反省を求めむとするものにしてこの點はただ方丈記につきてのみ論ずるものにあらざるなり。
// 
// なほ又方丈記が池亭記によれりといふことの何の恥づべき點なきを吾人は思ふ。先づこの題號を見よ。池亭記と方丈記とその題號に於いてまづ一脈の生氣相通ずるを見よや。その池亭は池中の亭舍なり、この方丈は山中の小庵なり。長明の胸中或は最初よりして、池亭記の如きものを和漢混淆の文體によりて記述せむの腹案ありて宿構成りて一夕筆を呵して成りしものこの方丈記にあらずや。果して然らば、池亭記の文脈語勢はた、その成語の散見するはもとより當然にして、これあるが故に長明が卑劣なりとも拙陋なりとも認めらるべき筈なきものにあらずや。長明の方丈記をして全然古來かつてなき獨創の文たらしめざるべからざる必要は蓋しなかるべきなり。この故に吾人は保胤が白樂天の池上篇に暗示を得て池亭記をつくり、長明はその池亭記に暗示を得て方丈記を作れりとす。而してこれ實に當時の文學思想の大勢かくの如きものを生ぜしめしものなりと思ふ。しかもそれらの時勢の産物として方丈記は好成績をあげたるものと思惟するなり。
// 
// 以上論ずる如くなるを以て余はこの大福光寺本の如きを以て方丈記の信ずべき本なりと思惟するによりて、ここにこれをとりて、この文庫に收むるものの底本とせり。然れどもなほ多少の誤脱あるによりて、同一系統と目する扶桑拾葉集の異本及び余が藏する慶長若くはその前なるべき片假名古寫本を以てその誤脱を補ひたり。
// 鴨長明傳
// 
//     * (大日本史卷二百二十五の傳文を譯出し、一二の修補をなす。)
// 
// 鴨長明は菊太夫と稱す。世々鴨社の氏人にして祖季繼、父長繼、皆禰宜たり。(鴨氏系圖) 長明管弦に通じ、和歌を善くせり。(十訓鈔) 應保中從五位下に敍す。(系圖) 後鳥羽上皇召して和歌所寄人としたまふ。(十訓鈔) 一時の和歌に名ある者に敕して、肥大、枯細、艶雅三體の和歌を獻せしめ以て其の才を試みたまふ。衆皆之を難しとす。唯長明及び攝政良經、僧慈圓等六人敕を奉ず。長明嘗て父祖に襲いで社司に補せられむことを奏請せしかど許されず。これより鞅々として樂まず、門を杜ぢ、交を息め、葵の歌(見れば、まづいとど涙も、もろかつら、いかに契りてかけはなるらん) を作りて以て其の意を寓す。(新古今和歌集十訓鈔を參取す) 髮を剃りて僧となり、名を蓮胤と改め(東鑑) 大原山に入る。時に年五十。(方丈記) 建暦中鎌倉に往く。將軍源實朝素より其の名を聞きしかば、數々延接せらる。(東鑑) 幾も無くして京師に還り、創意して室を作る。方一丈、高さ七尺に過ぎず。柱楹屋廂皆鉤銷を用ゐ、開闔すべからしむ。或は意に適せざれば、移して以て他に往くに兩車に載すべし。遂に日野の外山に入る。有る所、佛像及び書數軸箏琵琶にして餘は貯蓄する所無し。山に登り水に臨み採〓(けつ) 自ら給す。方丈記を著せり。其の耿介の氣、其の中に概見す。世之を傳誦す。(方丈記) 後上皇復た召して和歌所に入れむと欲したまふに、長明和歌(沈みにき、今さら和歌の浦浪に、よせばやよらん、あまの捨舟) を上りて之を辭す。(十訓鈔) 遺跡は石床有り。世に方丈石と號す。初め藤原俊成千載和歌集を撰進せるとき、長明の歌を採ること僅に一首のみ。長明喜んで曰はく、我れ歌人の後に非ず、身亦才有るに非ず。而して勅撰集中に採録せらるるは豈に至榮に非ずや。或人曰はく、子の言甚だ理有り。他人は此の如くなること能はじ。吾れ是の集を閲するに庸流多く收載せられ、多き者は十數首、少き者も四五首を下らず。吾以謂へらく、子内に平かなること能はざるなりと初めは子の言を信ぜず。而子屬言措かず、今よりして後子の實に之を喜ぶを知れり。心を存すること此の如くば、終に斯道に於いて神助を得べきなりと。其の後長明聲譽日に盛にして果して其の言の如し。(無名鈔) 新古今和歌集を撰するに當り、一時、和歌を進むる者、多きは千百首に至る。撰人刪り去る者多し。長明唯、十二首を進る。而して皆取る所となると云ふ。(兼載雜談) 著す所、瑩玉集、無名鈔、方丈記等ありて、世に行はる。
// 凡例
// 
// 一、
//     本文は大福光寺本(國寶) を底本とす。この本に磨滅汚損等によりて文字の明確ならぬものは、扶桑拾葉集の異本及び家藏片假名本によりて補へり。
// 一、
//     大福光寺本にも誤脱と認むべきもの多少存す。その部分は扶桑拾葉集の異本及び家藏片假名本によりて補へり。
// 一、
//     大福光寺本、扶桑拾葉集の異本、家藏假名本互に違へる所少しく存す。それらの場合にも本文は主として大福光寺本によりその他は下に注す。但、大福光寺本明かに誤と認むる場合には正しと認むるものを本文とし、その他を下に注す。
// 一、
//     以上、三項の場合の注記はすべて脚注の形式として、その首字の行の脚下に注記す。
// 一、
//     用字は主として大福光寺本により、特別の場合は前四項の例による。而して、傍に漢字又は假名を加へて、その意とよみ方とを注す。この傍書は前出二書によりて可なるものと認めたるを加へたるが、それらになきものは色葉字類抄、類聚名義抄等同時代の書によりて加へたり。
// 一、
//     假名遣は大福光寺本「ハ」「ワ」、「イ」「ヒ」「ヰ」、「ウ」「フ」、「エ」「へ」「ヱ」、「オ」「ホ」「ヲ」相亂れて一定ならず。これらはすべて正しきに改めたり。その亂れたる例をあぐれば次の如し。
// 
// 「は」を「わ」とかけるもの
//     ヒワ(琵琶)
//     イワ(岩)
// 「わ」を「ハ」とかけるもの
//     水ノアハ
//     事ハリ
//     サハガシ
// 「い」を「ゐ」とかけるもの
//     クヰ(悔)
// 「ひ」を「い」とかけるもの
//     ツイヤシ
//     スイ(吸ひ)
//     ヒタイ(額)
//     カイコ
// 「ゐ」を「い」とかけるもの
//     田イ(田井)
// 「ひ」を「ゐ」とかけるもの
//     ハヰ(灰)
//     チヰサキ
//     ツヰニ
//     ヲホヰ(おほひ)
// 「ふ」を「う」とかけるもの
//     ヒロウ(拾ふ)
//     タウトミ(たふとみ)
//     タウレ(たふれ)
//     アヤウキ  アヤウカラズ
// 「え」を「へ」とかけるもの
//     タヘテ(絶えて)
//     をほへす(おほえす)
// 「へ」を「ゑ」とかけるもの
//     イヱ(いへ)
// 「ゑ」を「へ」とかけるもの
//     ユヘ
//     ウヘ(飢ゑ)
//     スヘン(据ヱン)
// 「お」を「を」とかけるもの
//     ヲキナ
//     ヲキ  ヲク  ヲケリ
//     ヲコシテ  ヲコリテ
//     ヲコタル
//     ヲコナヒ  ヲコナハム  ヲコナハルヽ
//     ヲソレ  ヲソル  ヲソルヽ  ヲソロシキ
//     ヲチ(落)  ヲチホ
//     ヲト  ヲトツル  ヲトロク  ヲトロヘ
//     ヲナシ  ヲナシキ  ヲナシコロ
//     ヲノガ  ヲノレ  ヲノヽヽ  ヲノツカラ
//     ヲビタヾシク
//     ヲホヰ(おほひ)  ヲホナヰ  ヲホカタ
//     ヲホカレ  ヲホカリ  ヲホク
//     ヲホキニ  ヲホキナル
//     ヲホヘス  ヲホユル
//     ヲモクス
//     ヲモヒ  ヲモヒシカトモ  ヲモフ
//     ヲモムキ
//     ヲヤ(親)  ヲヤコ
//     ヲヨハス  ヲヨヒテ  ヲヨヒ
//     ヲロカ  ヲロソカ
// 「ほ」を「を」とかけるもの
//     イキヲヒ
//     イワヲ
//     トヲキ  トヲク
//     ナヲ  ナヲル
//     ホノヲ
//     マトヲ(間遠)
// 
// 本文
// 
// (省略)
// 奧附
// 
// 方丈記
//     ☆ ¥100
// 1928年10月15日
//     第1刷発行
// 1939年6月15日
//     第14刷改版発行
// 1979年6月20日
//     第54刷発行
// 校訂者
//     山田孝雄(やまだ よしお)
// 発行者
//     緑川亨
// 発行所
//     株式会社 岩波書店
// 印刷 / 製本
//     法令印刷 / 桂川製本
// 
// 落丁本・乱丁本はお取替いたします。
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