#author("2020-07-25T19:31:03+09:00","default:kuzan","kuzan")
#author("2024-01-17T10:12:33+09:00","default:kuzan","kuzan")
[[平野彦次郎]]

徳川時代に於ける[[助字]]・[[虚字]]・[[実字]]の著書に就て

(上)斯文(第九編・第九号)昭和二年九月一日発行
(中)斯文(第九編・第十一号)昭和二年十一月一日発行
(下)斯文(第九編・第十二号)昭和二年十二月一日発行
https://app.box.com/s/hg5l6jxh97x51uq3s2cs47ruhec4zxac


勉誠社文庫59『助辞訳通』(勉誠社 1979.4)に再録

//        一 緒  誚
// 徳川時代に於ける助字・虚字・實字の著書は、大抵同訓異義の文字を類排して共の辨別を圭として居る
//ので、厨訓異義の研究といふ題にせんかとも思ひましたが、刻翻羽莇の如き普通に訓讀し難いもの、即ち同訓異義といふ題下には包括し難いものもあるから、右の樣な題にしましたり
// 同訓異義の文字が、何故にかく多數にあるかは、勿論種々の原因があらうが、大體漢字を訓讀する際
//に、我が國語に之に對する適切な言葉がなく、正確に訓するには數語を連ねて長い言葉としなければな
//ら瀚oそれでは煩雜に堪へないので已むを得す路ぼ類似した國語で、共の一部分に當る訓を附けたとい
//ふのが典の圭なる原因であらう。伊藤東所が「如二本邦之訓→訓簡而用博、訓簡則親以爲v同、用博則不
//v能「無v錯」・といって居るのもそれである、 又は一箇の漢字に數箇の意義があり、隨つて字書等にはそ
//れぞ軸の訓を附してあるのに、實際は普遯に讀み慣らされた訓語を以て意義の異なる場合にも流用して
//居る爲、同訓異義の數を培したといふ點もあらう。兎に角同訓異義の文字に就いて之が辨別をなすこと
//は必要なことではあるが、それにも
// (イ)本來の意義を異にし、隨つて其の用法も全く異なるものo
// (ロ)本來の意義は異なれども、其の用法には區別する場合と逋用する場合とあるもの。
// (ハ)字義には差別はないが、地方により用法の別ある爲、別義の如く戚せられるものo
// (二)字義は同じであるが、時代によつて變遷ある爲、別義の如く威せられるもの。
// (ボ)本來の意義用法に大差ぱないが、偶然用法を異せる例が卑近な書中に在る爲、別義の如く速斷し易いもの。
// (へ)同一の句が兩書に記載せられて、共の中=一の文字を變改せる場合には、雨者通用するが故に無意義に變改したものと、筆者の着意に相違ある爲に特に變改したものとがあつて、動もすれば一方のみに誤認し易いもの○
//等があつて、其の辨別は甚だ容易でない○而して之を説朋した著書は、多く助字・虚字・實字等に類別し
//て説明して居るが、其の助字・虚字。實字とは如何なるものであるか○少しく之を迹べて見ようc
// 伊藤東涯の助字考の序には、
// 文有虚箕而實爲v圭虚爲"賓.天地日月山川草木、字之實者也.覆載照臨流蒔生榮.字之虚者
// 也.所下以道昌賓圭之際嚇逋舮虚實之用占者、共助辭乎.
//とて助字・虚字・實字の三者に對する説明を與へて居る。是れが徳川時代の學者の大體に於て}致した分
//類である。然し操觚字訣の字例には、助字の外に語辭といふ名目を置いて居る。即ち
// 凡文字、而於乎哉ノ類ヲ助字ト云フ、文章ノテニハナリ、嗚呼、如何、稍、亦ノ類ヲ語辭トイフ、文章ノコトハ字也、命スル、見ル、行クノ類ハタラキニナルヲ虚字ト云フ、天地日月命令ノ類ヲ實字トイフ、ソノカタチアルモノナリ、
//といふのである。夂物徂徠も四種に分類して居る。譯文筌蹄の題言に
// 是編有形状字面看昌作用字蚕有二聾辭字壷有物名字面〜詩家所v謂虚實死活、即是物也.
//といひ、凡例には更に之を説明して、
// 是編部目.有出宇虚字い即題言所v謂形状字面是也.有呂虚字い即所v謂作用字面是・也、有昌實字「即物
// 名字面是也、有助字ハ即聾辭字面是也.
//といつて居る。東涯の説に比すると、虚字を「虚字(圭として動詞)と牢虚字(圭として形容詞)と」に分け
//た點が異つて居る。而へ訓譯示蒙の卷首には更に細かに之を分類して居る。即ち左の逋り、
// 字義ノ大綱ヲ云フニ字品ト字勢ト云フコトアソ、字品ハ字ノ元來ノ|種姓《スジヤウ》ナリ、字勢ハ字ノナリフゼイナリ、字品トハ虚實正助ノ四ヅナリ、虚字トハ大小長短清濁明闇喜怒哀樂飛走歌舞ノ類也、此ノ内ニ動ト靜トアリ、靜ノ虚字ハ大小長短清濁明闇等也、動ノ虚字ハ喜怒哀樂飛走歌舞等ナリ、實字トハ天地日月鳥獸草木手足頭尾枝葉根莖等ノ字ナリ、此ノ内ニ體ト用トアリ、天地日月鳥獸草木等ハ體ナリ、手足頭尾枝葉根莖等ハ用ナリ、虚實共ニ正ナリ、正ノコトヲ實語トモ云フ、助ハ助語ナリ、之乎者也矣焉哉の類ナリ、正ハ語ノ正味、助ハ倭語ノテニヲハ也、正ノ助ニナルモノナリ、
//今、徳川時代の書中に見えたる助字。虚字・實字を概記すると、
// 助字(助辭・助語とも書す)圭としては恕契却引.乎釧軅等〆.・あるが、M刀最郎則乃等の副詞接續詞及び是
// 期等の代名詞をも含み、甚だしきは望到瓔等の如き動詞をも含んで居る。 (操觚字訣には、前逋の如
//---------------------[End of Page 4]---------------------
// く助字の外に語辭といふ名目を置いて居る)
// 虚字 主として思想憶懐念や善し好し等の動詞形容詞であるが、副詞代名詞等をも含んで居る、(操
//  觚字訣には、動詞形容詞中の入事に關する語のみを虚字と稱し、一般に用ふる語を雜字として顧別
//  して居る)
//   明清の人の著書には、助字のことを虚字と稱して居る者が多い。
// 實字 主として名詞で、それに測剥口禦予洳爾等の入稱代名詞をも含んで居る。
//斯く内容に出入のあるのは、種々の原因に基くのであるが、譯文筌蹄の凡例には
// 但是編圭意、元在二同訓異義之辨薊同訓所v牽虚或人二宇虚李虚或入v虚.入v實.助字又入v虚者.
// 往々有v之、而絡不v能二逐一精選以從嵩本類一者.爲y是故也.觀者共察v諸。
//と云つて居る。已むを得ない次第である。
// 此の同訓異義の字に就いて、其の異同を辨せんとせば、如何なる方法を取るべきか、本來我が國訓讀
//の結果此の混同を生じだとせば、支那に於て同訓の文字を類排した著書の無いのは巾すまでもない。因
//つて各時代に出でたる諸種の字書を參考するより外はないが、共の字書の説明も甚だ簡單で、我が國人
//の此の要求に滿足を與へることは困難である、今説文に説く所の=一を例舉すると、
//走趨也 趨走也 奔走也
//倚依也 依倚也
//の如き次第で、↓ハ書故にも
//---------------------[End of Page 5]---------------------
// 凡文各有v義、以v彼喩v此、終不昌親切「説文依倚互相釋.此類甚多、蓋無v取v之.取諸近似一而已.
//といつて居る。是れでは劉別の爲し樣はない。後世の字書も大體此の筆法で、而も我等の同訓とする文
//字を類排しては居ない。然し稀には爾雅や釋名の如き書も無いではない。爾雅では
// 初哉首基肇祀元胎俶落權輿始也(釋詁上)
// 印吾台予股身甫言我也(釋詁下)
// 懐惟慮願念怒思也(釋詁下)
// 大波爲v瀾、小波爲v淪(釋水)
// 大陸日v阜.大阜日v陵、大陸貝阿、可v食日v原(釋地)
//といふ風に類列してある○説明はないが、注疏等によれば其の文字の特徴を知ることは出來る。釋名で
//は
// 山産也.産二生物一也,土山日v阜、阜厚也.言告同厚庖.大阜日v陵、陵陵隆也、體高隆也、山脊日v岡、岡亢
// 也.在ゾ上之言也、山大而高日v嵩、嵩煉也、亦高稱也、山小高日v岑、云々(釋山)
// 江公也、小水流入昌共中「公共也.河下也、隨地下處「而逋流也.川穿也.穿地而流也パ釋水)
// 念黏也.意相親愛、心黏着不v能v忘也.憶意也、恒在「意中一也.思司也、凡有v所司捕h必靜思、忖亦然
// 也、(釋言語)
//釋名の方は説明があろので、大分辨別の參考になる。然し全體の文字が少數で到底滿足は出來ない。因
//つて是等の字書を根篠とし、多く古書中の用例を綜合し、諸家の訓詁を參酌して、其の義を悟るより外
//はないのである。然らば我が國の先儒は之に謝して如何なる研究をさ@たか、其の迹を辿つて見だい。
//
//        二 徳川時代初期の概況
//
// 我が國漢籍の傳來久しく、詩文も相當に作られて居たが、足利時代の末までは助字・虚字等に關する
//専書は見當らない。徳川時代に入つても、特に我が邦儒の著書として出でたのは、元祿頃、}り以後であ
//る。重野博士も操觚字訣の序に
// 中古以前之學者、皆用昌力於此茹二源順和名鈔是也、而未看下説及異字同訓、同訓異義虚實字一
// 者図有v之蓋從昌正亨諸子「始、諸子中又以噂東涯徂彼二子爲二亘擘「矣.
//と云つて居られる逋り、實に徂徠東涯を以て第一としなければなら撮。徂徠東涯は當時東西の兩大家で、
//共に助虚字に關する著逋、而も我邦最初の著述があつたのは、誠に一奇とすべきである。而して木下順
//庵門下に於ても、右と相前後して著邇された。即ち三宅觀瀾の助字雅である。
// 尤も此の三家以外にも助字の事を書いたものが全然無いのではないo漢文を書くには直ちに逢着する
//問題であるから、多少の考慮は拂はれ、又多少の意見は有つた筈である。然し一の成書となるには至ら
//なかつた。其の一二の例を擧げれば、藤原惺窩の|文章逹徳録綱領に於ても、卷二入式外録の中の句法の
//部に、助語といふ一項があつて四箇の例が擧げてある。例へば
// 論語日.子日.學而時習v之、不昌亦説一乎.
//   學時習説四字、是實字、而之不亦乎五字、是助語.
//といつて、實字と助字との別を示してある。又字法の部には陳驥の丈則中の助辭に關する説五六を拙
//---------------------[End of Page 7]---------------------
//し、又羅大經が詩に助語を用ふる法とて、六箇だけ古人の句を引證して居る。又貝原益軒の樹物鍵誨に
//は
// 吾邦人之作女字也.讀v之不v能v無二顛倒只中略)且不v諳y有咽焉哉乎也等之助字「故迫v作噐爲文章ハ雖一
// 老師宿鑑布置處字之間不v竟v有一顛倒錯鞏豈非脅而不7察乎。
// 豈字、字書以爲`非v然之壁篤信謂.又有事可v爲二疑問之辭煮文選鸚鵡賦豈言語以階氤、將不密
// 以致v危、注、呂延濟日豈自發問也、篤信謂、論語入侑篇、哀公問"社章注豈以三古者戮入於社ハ故
// 附薈共説歟.此類亦多矣、是不v可v爲昌非v然之辭苛v爲輔倉發問之辭n
//等の説があつて、一箇の見識を具へて居られるが、助字の著書としては無いo
// 諸學者が多く此の程度であつたのに、徂徠東涯觀瀾諸家の著逋が相前後して出つる樣になつたのは、
//其の學問の趨向と其の人の圭張とが自ら然らしめた者ではあらうが、此の氣運を作つたのは、必す他に
//原因が無いとは云へない。
//       三 助語辭の影響
// 支那には、我が國の所謂同訓異義の文字を王として、類排し辨別したものが無いのは申すまでもない
//が、跳ハの助字を解したものには、幾分參考すべきものがあつた。
// 助字の使用は、支那人の方が我が邦人よりは悟り易い筈であるが、往々其の用法を誤る者があつて、
//自然之を説く必要が生じたのである。特に助字に關する專書あるは、趙宋以後の事であらう。尤も語助
//といふ語ぱ、漢以前に既に見えて、禮記檀弓上の「母唱從從爾娯母昌扈扈爾この鄭玄の注に、「爾、語助」と
//---------------------[End of Page 8]---------------------
//書してある。又梁の周興嗣の次韻せる千字文には、
// 謂昌語助鱒者、焉哉乎也.
//とあつて、當時既に語助が注意されたことが知られる○唐の代になつては、柳宗元が復二杜温夫一書に、
// 但見二生用一助字h丕當二律金唯以v此奉答、所v謂乎歟耶哉夫者、疑辭也、矣耳焉也者.決辭也、今生
// 則ア之、
//といつて居る。助字の使用は時代によつて多少の相違があつたことは申すまでもないが、疑辭決辭の別
//も分らなかつたとは、聊か意外に戚せられる程である。此の文は後人の注意を惹いて、我が國の助字を
//説いた書には屡ζ引用されて居る.、
// 宋の代に至つて陳驟の文則が出た。此の書は元來文の法則を説いたもので、東涯の用字格や徂徠の文
//理例の如きは、此の書に胚胎した點が多い樣に思はれるが、又助字としても參考されたことは、毛利貞
//齋の冠解助語辭等に文則の説を引用して居るのでも分る。又徂徠は此の書を評して、
// 歐蘇文名噪昌海内h古則蕩然、宋之弊也.陳驥生二其間「心識昌其非乃作此書「根二極諸子荷李之疇
// 矢矣.
//と云つて居るのを見ても、此の書が愛讀されたことが分る。然し助字專門の書としては、先づ
//  ◎助語辭一卷         明  盧允武著
//を推さねばなら濾。此の書は助字百餘字を選びて其の意義用法を説明したもので、簡單ではあるが、我
//が國の助字研究には非常に影響を與へたもので、毛利貞齋は
//---------------------[End of Page 9]---------------------
// 盧允武所y著助語辭、寔是雖電冊小葉莢範龜鏡、不v爲び不矢、是故沸手世一既久矣。
//と云つて居る。共の著者盧允武の事歴は詳かでないが、胡文煥の序文に
// 一日偶得盧允武所v著助語一帙一覽ソ之深恢二鄙懐ハ途不敢私h因爲校正而附二之剞圃民ハ以公二諸
// 世焉.
//とあり、序文の成りしは萬暦壬辰(二十年、我が文祿元年)なれば、同書の刻せられしは萬暦二十年が最
//初で、盧允武も或は萬暦に近い頃の人なりしならんと思はれる。而して其の校刻者胡文煥に就ては、毛
//利貞齋は
// 傳不v見. 予往年長崎の耆老の物語を聞くに、賈人にて時々利倍の便りに著岸したる、學材を具へたる者と云へり。
//といつて居る。ヌ
// 文會堂は、胡氏が書堂の號なり。此の人諸書を印板に行はんとする時校正したる數多し。予が所見にも、宜齋野乘.戴氏鼠璞、李氏刊誤、(中略)事物紀元等に、皆錢唐胡文煥徳甫校とあり。學に志ありて、其の家に印板し校正をするならん、文會堂も其沽賣の書庖の稀なるべし。
//とも云つて居るG而して貞齋の舉げたる諸書、及び陳驥の文則や此の助語辭は、皆胡氏が校刻せし格致
//叢書中にあるから、右諸書は大凡同時に渡來したるなるべく、早くも慶長年中で、先づ徳川の初期と稱
//して差支ば無からう。
// 我が國の刻本も、新刊助語辭の卷首には、盧允武著胡文煥校とあれば、格致叢書中のものに依つて刻
//---------------------[End of Page 10]---------------------
//した事は明自であるが、漢籍解題に擦れば、延寳二年の翻刻があるとのことである。明治十四年には助
//語辭解(別に解がある譯ではない)と題し、中村敬宇博士の序を添へて翻刻されて居る。又助語審象の序
//文には
// 往自マ盧氏者一唱昌助語辭「而踵v跟撰述者.無慮数十家、とあつて、此の書流行の結果、當時の學者
//を刺戟し、助字研究の氣運を促進したことも略ぽ想像される○左に助語辭に關する書二三を舉げよう。
//  つ鼇頭助語辭二卷       毛利貞齋著
//   一名、重訂冠解助語辭、又、重訂培廣冠解引證擧例助語辭大全とも云ふ。
//貞齋の跋に
// 引證少.舉例稀.後生憾ソ難二通暁h予往昔應昌家童之扣問¶附二記共一二¶
//と云つて居る迥り、原書が簡に過ぐるが故に、其の説明に就き、一語一語に諸書を引證して解説したも
//のである。此の書は天和三年即ち新刊助語辭が始めて印刻されてより九年目に出版されたが、それから
//三十五年を經て文字漫滅したので、更に多少の増訂を加へて、享保二年11卜再刻したのである。以て如何
//に歡迎されたかを知ることが出來る。
// 鼇頭助語辭の再刻に先つこと九年、即ち寳永五年に、毛利貞齋は更に
//  ◎訓蒙助語辭諺解大成四卷          毛利貞齋 著
//の著がある。此の書を冠解助語辭と封照するに、其の詳悉の度は冠解が優って居るが、然し各,長短があ
//る。冠解は漢文で、一字毎に諸書を引證して、博く集めてあるのが長所で、主として幾分素養ある者の
//---------------------[End of Page 11]---------------------
//參考に供すべきものである。諺解の方は假名交りで處々に概括的の説明を附し、卑近にして解し易から
//しめんとした者である。又冠解は原本を圭として居るが、諺解は往々助字を培補して居る。
// ◎廣盆助語辭集例三卷        三好似山編集
//此の書は元祿七年の刊行で、凡例に
// 凡盧氏所ソ載之字辭.僅一百有籐、今所二増盆「者一千有除矣.於冖毎字之上ハ以二梅誕生之字彙ハ附昌
// 切昔h又依[若干韻書「抑訓詁一以便攻考一也.
//とある逋り、原書より十倍も増加して居る。又其の舉例については、
// 凡毎字舉v例者、皆以わ所v在二於四書五經一者上載v之.無者又於二史類文選諸子百家之書贈求v之.摘二共
// 前後之一兩句轂v之、欲v使二見者有v所v考而易・曉也、
// 凡有異字而同意者、意異而字同壷今集典類「分v之、以載二卷貢將v命見者一覽而有ワ曉也、
//と云つて居るので、本書の大體を知ることが出來る○要するに毎字諸書の説及び例を蒐めたもので、博
//く蒐めたことは多とすべきであるが、一家の見として諸説を裁決し、又は同訓文字の差別を説いた樣な
//點はない。
// ◎助語辭考録大成一冊            穗積以貫 撰
//此の書は原本の説朋を共儘に書し、共の説を某礎として自家の説を假名交りで書き加へたものであるo
//余の藏せるは寫本で序跋がないが、何れ元祿から享保頃の間の著述であら・ンc
// 以上舉げ驚四書の内には、一箇の成書として別名を附し得べきものもあるが、皆助語辭の名を冠して
//---------------------[End of Page 12]---------------------
//居るので、獨立した邦入の著書とは云へない。此の如く助語辭は我が先儒の注意を惹いたものではある
//が、固より簡箪な小册子で、共の説に滿足し難い點あるは勿論である。服部南郭は其著文筌小言中に
// 世有昌盧氏助語辭h蓋擾乏郷里小兒ハ以便吾伊一耳.而世獪親二語助h不二啻江海㍗則亦皆云、文章津
// 筏、莫一此若一也膚淺之書.見以爲昌金科玉條「今且指二點一二「以引昌共惑「
//とて之を論じて居る。かゝる非難あるは、却て助語辭の盛行を見るべき材料になるのである。
//        四 明清人の著書
// 序に我が國先儒の參考せし支那の著述を記して見よう、
//  ◎操觚字要          明 李廷機
//  ◎操字法            湯   賓  尹
//右二書は東涯等の參考したものであるが、余は未だ見ない。其の中字要の方は、東涯の助字考は勿論、
//貞齋の冠解助語辭の如きには、殊に多く引用されて居る。それから察すると、其の一助字に蜀する説明
//は、助語辭よりは詳細である。
//  ◎文字竅 }卷                石成金訂 集
//助字を、起語(爿劃の類)、接語(此是則の類)、轉語(姻國躙の類)、襯語(ガ蜘洲引軅の類)の四類に分つ
//て説明してあるo我が國では寛政六年に岡田挺之の序を添へて翻刻されて居る。
//  ◎虚字啓蒙}卷          清  王濟師著
//  此の書より以下三書に虚字と穩するは、皆助字のこ乏である。
//---------------------[End of Page 13]---------------------
//此の書は助語辭等と同じく例を畢げないで、唯意義用法だけを簡單に詭いて居る。我が國では王潤洲先
//生著として天保亠ハ年に山本北山の詩用虚字と共に合刻して居るo
//  ◎虚字説一卷      清 袁仁林著
//右の虚字啓蒙と相似た書で、字數も百蜍字しかないo
//  ◎虚字註釋備考亠ハ卷        清 張文炳點定
//此の書は⊥ハ卷といへば、内容も豐富の樣であるが、實は一卷が三行位に過ぎない處もあつて寥々たる小
//冊子である。起語、接語、轉語、襯語、束語、歇語の六類に分つて居る。石成金の文字竅と劉照すると、
//第四類までの名は全く同じく、而も各類の説明、例へば「起語者、前v此無乏、而以虚字「起v之、云々」と
//いふが如きは殆んど同一である。此の點より考へると、文字竅を本にして編述した者の樣であるが、然
//し各助字の説明は決して前者を套襲したものではない。
// 此の書は嘉永四年に安積艮齋の序文を添へて翻刻され、艮齋の序中には
// 盧緯助字解甚疏.王引之經傳釋詞備矣、而非以昌作文驅爲シ主也、惟張文炳虚字注釋、爲-讀左氏
// 博議麟者幽設.以爲鵠擧業之資h共詮釋簡明、有v裨手操觚匪v淺也、
//とあつて、盧允武の助語辭も此の頃には餘り喜ばれない樣になつた事も知られる。然し此の張文炳の書
//も助語辭に比して甚だしく優つて居るとは思はれない。
// 〔附記〕 此の書は舶來の東莱博議の末に附載してあつたのを、我が國で別行させたもので、右の嘉永
//  四年より以前(寛政十二年)に既に刻本がある。それは
//---------------------[End of Page 14]---------------------
//  ○虚字註釋備考考證九卷          山世孺仲直氏考證
//  で、原文の説明に對して一々經史の句を引いて用例を示して居る。又説明にも唐文彪の説等を引い
//  て垉補した所がある、
//  ◎經傳釋詞十卷       清 王引之著
//此の書は王引之の序中に
// 自昌九經三傳ハ及二周秦西漢之書h凡助語之文.偏爲昌探討「分v字編次、以爲二經傳釋詞十卷h凡百六
// 十字.前人所v未v及者補v之.誤解者正v之.共易v曉者.則略而不v論、
//とある逋り、助字百六十字に就き、經傳の例を擧げて詳細に説朋したもので、共の内容及び識見に於て
//は、全く前數書の比ではない。我が國では天保十二年に東條方庵が、皇清經解中より拔き出して翻刻し
//た。隨って東條父子の著たる助辭新譯には、此の書を引用した所が多い。
//〔附記〕
//  ○經詞衍釋十卷 補遺一卷        清  呉昌瑩 撰
//  此の書は同治十二年の出版で、經傳釋詞に説いた百六十字を其の順序に擧げ、字毎に先づ「經傅釋
//  詞日」として王引之の説を引き、次に「衍日」として釋詞に舉げざる諸例を引いて、詳細に解釋した
//  ものである。補遺は釋詞に舉げない助字二十三、例へば既途何此等を舉げて例證解釋したものであ
//  るo
//  O經傳釋詞補一卷    清孫經世撰
//---------------------[End of Page 15]---------------------
//  此の書は光緒十四年の出版で、釋詞に載せた百六十字中、羸→乃爾纔笛醐癩瀞諭銅湘の十二字に就
//  いて、更に例證して意見を述べ幻者である。
//  ○經傳釋詞再補一卷      清 孫經世撰
//  此の書は光緒十一年即ち前の補より以前に出版されて居る。文字は耐如課鯏の四字に過ぎないが・
//  一字の説朋が二十餘枚に亙つて居るのもあつて、頗る詳密である。
//  ◎助字辨略五卷      清 劉淇撰
//助字を四聾の各韻に分つて排列してある、經傳釋詞と比較すると、字數は四百四十}字で釋詞の數倍に
//上つて居るが、一字の説明は釋詞よ6簡なる所がある。其の刊行は康煕五十年で、釋詞の刊行即ち嘉慶
//三年に先だつこと八十七年であるが、其流傅は釋詞に及ばなかつた。我が國では徳川時代の學者には餘
//b影響を與へて居ない樣である。
//  ◎虚字用法      清  唐彪撰
//此の書は明治九年に岡三慶氏が選逋されだ、作文用字明辨の根據となつて居るo唐彪は讀書作文譜の著
//者で、或は參考に値するかとも思はれるが、未だ見ないo是れは徳川時代に關係はないが、序に記して
//置く。
//        五 觀瀾・徂徠・東涯・友竹
//以下我が國先儒の著書を逋べるのであるが、先づ左の書より始める。
//  ◎助字雅 一卷              三宅觀瀾著
//---------------------[End of Page 16]---------------------
// 此の書は元祿十二年即ち觀瀾の二十五歳の時の自跋があるo物徂徠が譯文筌蹄を説いたのは、其の二
//十五亠ハ歳の時で元祿の初年である(出版はそれより二十年も後れて居る)。又伊藤東涯が助辭考を書いた
//のは二十歳前後で、其の自序を書い花のは二十四歳の時、是亦元祿の初年である。我が國學者が獨立し
//た一箇の書として編逋したのが何れも元祿の頃で、而かも何れも二十幾歳といふ青年時代であつたこと
//は、誠に奇とすべきである○
//は、誠に奇とすべきである。
// 此の書は文化五年に薩藩府學で出版した者及び傳寫の者には助字雅訓と題し、嘉永六年甘雨亭叢書中
//に刻しだのは助字雅と題して居る。(明治十年出版の者には飜助字解と題して居るが、是れは發責の便宜
//に刻したのは助字雅と題して居る。(明治十年出版の者には飜助字解と題して居るが、是れは發賣の便宜
//上改めたものであらう)。即ち書名が兩樣になつて居るが、其の内容に於ても二樣に分れて居る。一部は
//漢文で説明し、其の部分を助字雅と名づけてある。他の一部は假名文で説明して、助字雅訓と題してあ
//る。甘雨亭叢書の本は漢文の部分のみであるから、自然助字雅と稱すべきで、其の他の雅訓あるものは
//又其れに依つて名を冠したのであらう。唯薩藩出版の者は右爾部を混合して、毎字に先づ漢文の説明を
//'附し、次に假字文の説明を附してある.、是れは繙讀の便を圖つたものであらう。
// 説明は漢文の部は、李廷機の操觚字要、盧允武の助語辭、及び韻會小補.正字逋等を參酌し、假名の
//部は我が俗語に封譯して説いてある。殊に輝幽期飆、初葡劉飾等を類擧したのは、同訓異義辨別の意を
//見ることが出來る。但し何れも説明のみで用例はないc
//  ◎譯文筌蹄亠ハ卷                       物徂徠 著
// 此の書は徂徠二十五亠ハ歳の時ロ授したのを門人等が筆記して置いたもので、寳永八年門人吉有鄰の凡
//  ◎譯文筌蹄 六卷                       物徂徠 著
// 此の書は徂徠二十五六歳の時ロ授したのを門人等が筆記して置いたもので、寳永八年門人吉有鄰の凡
//---------------------[End of Page 17]---------------------
//例があるから、徂徠の四十五六歳の頃に出版しだものであらう。寶暦三年に服元喬の書した物夫子著逋
//書目記には、
// 譯文筌蹄六卷
//  右夫子初年授昌門入凸而令筆受一者、雖氈刊行「焉.晩年頗有一毀廢之志h故棄而不v用、
//といつて居る。又肥後の藪愼庵が譯文筌蹄の後生に盆あることを稱した時、徂徠は悦ばないで、
// 譯文筌蹄土苴也.著夫二辨之書、僕自謂.開闢以來.聖門大功.吾子舎v此取v彼、何不v知v僕之甚.
//と答へて居る。徂糠自身に於ては、固より重んぜし書では無かつたであらうo或は毀廢の考もあつたで
//あらう。然し此の書は實に室前の著書で、學者を裨盆すること亦實に多大であつたc江村北海は
// 譯文筌蹄の如きは、今の人、文字の業にさかしくなbたるは、其の惠なしとは云ひ難し、それより此
// 方、今に至りて文字の解をなせる書、數々世に行はる丶も、畢竟、共の餘勇を買ふものなり、堀南湖
// は、東涯の用字格徂徠の譯丈筌蹄は、初學には有盆の書なり、文字の事をかほどよく合點するといふ
// は大方ならざる事といへり、今の末學、南湖の十分の一もなき學力にて、右の二書などを輕覗し、兎
// は、東涯の用字格徂徠の譯文筌蹄は、初學には有益の書なり、文字の事をかほどよく合點するといふ
// は大方ならざる事といへり、今の末學、南湖の十分の一もなき學力にて、右の二書などを輕視し、兎
// 園の册子になづらへ思ふは、量を知らすとやいふべき、
//と云つて居るのは實に至當の言であるo其の内容は、
//と云つて居るのは實に至當の言である。其の内容は、
// (イ)卷首に題言十則があつて、初學者の心得とすべき事を丁寧に説述して居るo是れには參考でべき
//  點がある。共の中に形状字面、作用字面、聾辭字面、物名字面の四者を以て部目と爲すとあるが、
//  別に部目は設けてない。唯粥騨躑劇の次に型完、善矧欟蒭等の次に剽醜四等を置き、遡慂等の次に
//---------------------[End of Page 18]---------------------
//  錮遐等があるといふ樣に幾分排列に注意した點は認められるo
// (ロ)同訓異義を辨することは此の書の主眼であるから、大抵は同訓の者を}括してあるが、意義の近
//  似した者は同訓でなくとも一類にしたのもある、例へば、
//   漲瀏酬皿 麺測…瀾漁綿  淵 淵…瀏…霽澗溺
//  の如きであるo
// (、ノ)品詞としては動詞が尤も多く、形容詞副詞に屬すべきものも相混じて居る。
//文字の排列について一の注意すべき事がある○それは共の開卷第一の文字が閑靜靖恬等から始まつて居
//て、頴7言中に左の語があるo
// 予昔趨二先大夫之庭h與二聞閑靜字義「此共撥二脱和訓h精覈字詁一之所二職由「故是編亦以二此二字一
// 爲二首則¶示v不ド忘y本也。
//微細の事ではあるが、誠にゆかしい威がある○
// 毎字の説明は懇篤で極めて逋曉し易く、殊に論斷の明快なことは流石に徠翕の識見を想見するに足る
//ものがある。此の書は操觚字訣と共に類書中に嶄然頭角を見はして居るので、今試みに兩書を對照して
//見ると、
// (イ)彼れは説明中の用例に専ら文語を引いて、詩語を引くことは稀であるが、此れは詩語を引いた處
//  が多い○
//  が多い。
// (ロ)彼れは用例を器ぐることが精密で、多く句を取つて居るが、此れは多く熟語を畢げ、長句は稀で
//---------------------[End of Page 19]---------------------
//  あるo
// (ハ)彼れは多く雅語を圭として居るが、此れは往々俗語に及んで居る。
// (}輔)彼れは辨似を圭として、説明の餘事に及ぷことは稀であるが、此れは殆んど毎字餘事に及んで居
//  るo即ち其の文字に關する諸種の用方に及び、諸種の熟語の意を解いて居る。是れは讀者を喜ばせ
//  又諸種の智識を得しめるには盆があるが、重野博士の所謂「問有丁渉二乎奇僻一者とといふ評語は甘受
//  せねばならぬ。
//  ◎譯文筌蹄後篇三卷         徂徠先生遺譯  竹里先生補譯
//此の書は諸家人物誌に載せたる徂徠著書辨に、
// 譯筌後編別二寫本アリ、刊行スル者狹兒贋作ナリ、
//とある逋b徂徠の著書ではないが、多く前の六卷と並穩されて居るので茲に列弩した。卷首に竹里の序
//文がある。即ち、
// 余故友齋大禮、從周遊南郭服氏h得徠翕譯筌寫本囀而還、照噛乏刊杢則多百餘字肋而別有昌文理三
// 昧「蓋是其初稿也.嘗謂ド余日.暇日補缺已.途不v果而卒.余惜其志之不途.於・是乎、授業之暇、就・
// 經史一抄録.更得】千有餘字「乃爲二分類'以施訓譯ハ合葺之前百有餘室名日閂譯筌後編h以纉二故人之
// 志一云.
//といふので、此の序は天明八年卸ち徂徠歿後六十年目に書いたものである.、此の序によれば譯文筌蹄の
//寫本中に、板本にない百餘字があつたので、是れを基礎として千徐字を培したのである。即ち大部分は
//---------------------[End of Page 20]---------------------
//徂徠の著ではない。南郭の物夫子著述書日記に、
// 後編未v刊者、亦舉以火v之、不v藏r干家「今世姦猾之徒、私刊昌續編哨或更題目一行・之者。往々有v之.皆
// 所丕用者、
//といつて居るのと丼せ考へると、徂徠の自著でない事は盆ζ朋臼である。又卷尾に麗澤堂圭人誌として
//左の語があるc
// 竹里先生改正初編之殘字h別撰二千有除字h爲二之訓鐸合乏殘字茗日二譯筌後編頃者就丑ハ門
// 人子裕岡君h請二上木h乃命昌剞圃「三卷已成、共後尋刻云、
//之れによると、書は天明八年に成つたが、出版はそれより八年後の寛政入年で、共後相尋で四卷五卷と
//出版する積りであつた樺であるが、それは途に出なかつた。唯奥附に「文明八年補刻」、「明治九年洗板補
//刻」と書したのはあるが、是れは内容の追補ではない。      、
// 此の書の鶻裁は卷首に文理三昧とて租徠の漢文法に關する意見を逋べたものがある。其の他文字の排
//列及び説明の模樣等ば大抵初編と同じで、縱倉徂徠の著でないとしても好著元るを失はない。
//  ◎訓譯示蒙五卷     物徂徠
// 此の書は卷一は請書作文に注意すべき大綱二十蜍條を説き、次に朱子注釋之定法とて十餘條の説があ
//り、卷二は文理例とて訓讀譯文の法及び文の變化を詭き、卷三以下は助辭の説明で、類似の文字數箇つ
//つ】括して説明してある。
// 序跋がないから著邇の時代は明自でない。板本は多く明和三年のもので、明治十四年稜訂出版された
//---------------------[End of Page 21]---------------------
//のもある。果して徂徠の自著であるか否かに就いては頗る疑がある。今それを逋ぺて見ると、
//    否 定 説
// ω服南郭の物夫子著述書目記に「不v見一以上目中一者.皆非v眞也.惟後進君子有取裁焉.」とあつて、
//  訓譯示蒙の名が見えて居ない。是れに依ると先づ徂徠の著でないと云へるのである。
// 働諸家人物誌中の徂徠著書辨にも、
//   名ヲ剽シナ贋作轟力・〃モノ  訓譯示蒙
//  としてあるo
// 働江村北海の授業編には、
//   譯文筌蹄は虚字の倭讀の同じきを辨析す、未だ助字に及ばす、次で訓譯示蒙出づ、専ら助字を辨
//   説す、是は名を徂徠に託したるものといふ、
//  と云つて居る。
// ←り内容に疑はしい所が多いo共の一例としては、示蒙の初に左の語がある、
//  書籍ハ文ノ方ナラバ朱子ノ文ガヨシ、朱子ノ文ハ奇崛ナルコトナク、無埋ナルコトナク、字義ノ
//  的當セヌコトナシ、故二字義文理ノヨキ師範ナソ、字義文理埓アキプ以後、文ノ巧拙ヲ論スル所
//   二至テハ韓柳等ノ文人ノ文ヲ見ルベシ、四書五經諸子ノ類ノ上代ノ文ハ時代異ナルユヱ今人ノ風
//   二合ニクキ間、字義文理合點ノ以後二見ルベシ、詩ノ方ナラメ三體詩ノ詩卆易ニシ・7文理字義合
//   點二落チヤスシ、ッイデニ唐ノ風骨ヲ覺エズ曾スルナジ、
//---------------------[End of Page 22]---------------------
// 此の文を見るに、
//(イ)深く朱子を電奉して「上代の文は時代異なるゆゑ今人の風に合ひにくし」とまで云つて居る。此の
// 朱子尊奉の意は全編に見え、卷二の文理例は悉く朱子の大學序を引いて居る。卷三以下助語を説く
// にも朱子の語を引くことが多く、論語詩經の詩を引くにも朱子の注を井引して居る。例へば卷四依
//字の解に、
//  依。元來ソフト云字ニテ依傍ト連用ス。ツキソヒ、ハナレズ、タガハヌ意ナソ。故二論語大全二
//  「相依而不v舍之意」ト毛「如昂身著表」トモ「隨v之而不v違」トモ註セリ。字ノ形、衣ノ人ノ身ニッキソ
//  フテハナレズタガハヌ處ナソ。故ニタヨル意ニモ通ヒテ、依頼依怙ナド連用セリ。依y人ト云ハ人
//  ニカ・リク居ル意ナソ。由レ是因v是ナドノヨッ一7二倭儒混用スルハァヤマリナリ。|其病根《つ。OO》ハ|朱子。
//  ノ|註法《OOOO》ヲ|忘《つ 》vタル|故。ナリ○|論。語學而篇ノ註二、因獪依也トアルニヨ.リ因ト依ト同意ト意得タルナ
//  リ。「獪」ノ字ヲ置キタル註ハ字義的當セズ。共ノ證據ハ朱子ノ詩傳二「今夕獪二今朝一也」トァソ。
//  コレガ一ッニナルモノカo
// とあるが如きは、徂徠の定論と合しないo即ち.
//  讀書之道.以下識舌文辭「識申古語占爲v先.如昌宋諸老先生「其禀性聰敏、操志高邁、豈漢唐諸儒
//  所二能及一哉、然自二韓柳出而後、文辭大變、而言古今殊矣.諸先生生二於其後h|以。二|今文。一|視《む》昌|古茎《む 》
//  |以《つ》二|今言《づつ》「|覗舌言。ハ|故其用《 ワつつ》ゾ|心雖。レ|勤《む》、|卒未《  り》ゾ|得。昌|古之道一|者。、|職此之由、(辨名)
//  大學程朱の解、大きに違候事に候、(徂徠先生答問書)
//---------------------[End of Page 23]---------------------
//  といふ論と全く相反して居る。又示蒙中に「仁者愛之理、心之徳也」を引いて説明して居るが、是れ
//  も辨名中に駁して居る。
// (ロ)三體詩を引いた點も徂徠の持論と合はない。
//   南郭云、今の學者皆來翕に開眼せられたり〇三體詩を結構至極と覺えてくらし來りたる處を、來
//   翕にて夜があけたり、(湯淺常山の文會雜記)
//   |四書五經。の新註大全等宋儒語録、詩文にては東坡山谷三體詩瀛奎律髓、屐史にては逋鑑綱目の書
//   法發明等、損友と可被思召候、(中略)唐詩逡唐詩品彙是等を盆友と可被思召候、(答問書)
//  と云つて居る通りで、三體詩に就ては徂徠は却て後世より非難される程、其の著者までも攻撃して
//  居る。
//以上の諸點より考へれば、僞書といふ説も頗る理由がある樣に見えるが、更に他の一面より觀察しよう。
//    肯定説
// ①那波魯堂の學問源流には、
//   初朱子の學を喜んで護園隨筆といふ書を著逋す、「譯文筌蹄」「訓譯示蒙」の類相繼で著述せり。
//  とあつて、是れは肯定説である。 (但し魯堂が筌蹄と示蒙とを護園隨筆より後の著述と見たのは、
//  正當で無い樣に思ふ)
// ②徂徠も最初は程朱を尊奉したことは、護園隨筆中に予十七入時.有v見v于v斯.而中夜便起.不v覺昌手
//   之舞v之.足之蹈7之.自v此之後、愈盆戴昌程朱諸先生之徳「弗y衰、以昌至于今「三十年一日也.
//---------------------[End of Page 24]---------------------
//  と云つて居るのでも分る。隨筆の著は正徳四年、徂徠四十入歳の時である○尤も其の間に多少程朱
//  の説に疑を抱いたことは、
//    蓋不佞小少時、已覺・宋儒之説.於・六經・有中不v合者h然已業v儒、非v此則無}「以施蒔、故任vロ任
//   v意.左支右吾、中弯自省、甚不v安焉、(讓園隨筆)
//  といへるを見ても分るが、兎に角五十歳以前は程朱を奉じて居たのであるG已に之を奉じて居たと
//  すれば、例中に朱子の語を引くことは別に怪しむに足らないG
// 働三體誌は勿論徂徐の取らざる所であるが、實は示蒙のみでなく、譯筌初編にも引いて居る。即ち李
//  王を奉じて初唐盛唐の詩を圭張するに至る以前に於ては、從來流行せし三體詩(圭として中唐晩唐
//  の詩)を愛讀した時代があつたことは明かである。隨つて三體詩の事は示蒙を否定する理由になら
//  ないo
// ω南郭の書目記に見えない事も否定する理由にはならない。それは少壯の著で後年所説一變する場合
//  には、其の書の流傳を迷惑に威する餘り、廢毀を欲するは有り得べき事である。隨つイ、書目記に見
//  えない者で、徂徠の著に相違ないと云はれて居る書は他にもある。
// ㈲山本北山著作文牽の中に「訓譯示蒙謬誤」といふ説がある○是れ示蒙を徂徠の著と信ぜしに因ること
//  は明かである○即ち是亦肯定説に加ふべきか○
//要するに示蒙は筌蹄と同じく徂徐初年の著で、自身には出版を喜ばなかつたであらう。殊に助字の研究
//は、徠門に於て餘り重きを澄かなかつた事は、山縣周南の作文初問や南郭の文筌小言等を見ても分る逋り
//---------------------[End of Page 25]---------------------
//で、是れ等の事も出版を喜ばなかつた理由の一つであらう○然し其の説明ぱ丁寧で好著たるを失はないo
//  附記
//  ○文筌か冒二卷       服部南郭著
// 南郭は、助辭には種々の用法ありて一概に説き瀧すべきものではない。徒に心力を韆して之を求めて
// も、共の趣は終に見るべからす、大に惑へ6と謂ふべし○といふ意見で、頗る意識に待つの風がある○
// 然し門人に問はれるの煩を避ける爲めに、數箇を筆にしたのが此の書で、僅かに十一枚位の小冊子に
// 過ぎない。助字を用ふる心得及び助字用法を=一論じてある。別に一書として舉げる程にも思はない
// が、徠門の助字に對引る一端を見る參考にもと思ひて附記して置く。
//  ◎助字考 一卷              伊藤東涯著
//元祿六年即ち東涯二十四歳の時の序がある○奥田十亨の跋に
// 此書係二先師二十左右作h蓋要v爲乏乎者也用得底秀才蒔也、
//と云つて居る樣に、東涯弱年の作である。然し直ぐに出版したものではない○跋に
// 曷謂射利者、私刊公v世、蕁火v之、許以昌書成改刊n他日書林來訂一一前盟ハ先師顧v亨命稜讐之任ハ既
// 而就v官.不v給二於務己v幾而先師易簀パ中略)不v果者二十年所、又恐v負二宿諾之戒ハ頃稍間、因就昌遺
// 稿稜ゾ之.途刊貽二同好「令v知二先師早歳之苦心騨焉已也、戸下略)寛延辛未上元日奥田士亨拜書、
//と云へるを見れば、東涯が士亨に校讐を命じたのは、死する四五年前卸ち六十二三歳の時で、出版は其
//れより又二十年も經過して居るo時に士亨の追加した所もあるo
//---------------------[End of Page 26]---------------------
// 此の書は助字の中でも後置詞のみを解説したもので、初めに「助語義一編」がある。是れは創勢鳳等十
//二字に就き、諸書の説を集め、一字毎に「胤按」として意見を附して居る。次に「助字考證上下二編」があ
//る。是れは也矣也爾矣等の加く二字三字或は四字相連用したもの七十入箇を舉げ、一々用例のみを示し
//た者である○用例は諸子百家の文が多く、經書は甚だ少い。卷末に其の子東所の助字考證補を附してあ
//る○
//  附 記
//   ○助字考小解            伊藤東所著
// 此の書は父の著に小解を附したものであらう。未見。
//  ◎操觚字訣十卷                伊藤東涯
//  ◎操觚字訣補遺五卷       伊藤東涯
//此の書は東涯の子東所の序に
// 先子嘗著|女訣。等書初學晩進、因以有v資焉.夙年爲昌|辨同訓。章三亘冊耒v完.晩草擽觚字訣赤
// 未v成v書.吁惜哉.於v是就一先子之遺稿「襲舊名嚇以纂二著此書h償二其志ハ補同其闘收二諸家一爾.
//とある○「文訣」及び「辨同訓」は見るを得ないが、それを大成したものが此の「字訣」である。即ち東涯の
//未定稿を東所が纂修したもので、此の序は寶暦十三年即ち東涯歿後二十七年目に作つたのである○然し
//未だ出版はされなかつた。それを明治十二年に村山徳淳の校讐版刻したのが、現行本である。又東所の
//凡例中に
//---------------------[End of Page 27]---------------------
// 先子初年に、|異字同訓考。ヲ輯ム、タ・古文ノ同訓アル句ヲ載ス、晩二|同訓雜誌。ヲ輯ム、亦同、ソノ後
// 操觚字訣ヲ草ス、同訓ノ義ヲ解ノ、古語ヲ引ク、三書未定ノ稿ニノ、鱧統ヲナサス、又諸抄鋒中間ζ
// 文字ノ義二及ブモノァソ、韶悉哀集培補ノ、以・ブ此書ヲ著ス、初二古語ヲ引キ、次二同訓ノ義ヲ注ス、
// 一二用字格二傚ト云、先子所v輯ノ古語及注解、十居二=二嚇ソノ先解中、亦培損併省ソ、以體製ヲ齊
// フス、皆奉昌承遺意h不三敢用昌拙見一云、
//とあるが、「異字同訓考」と「同訓雜誌」とは、序中の「文訣」及び「辨同訓」と、同書か或は別書か剣然しな
//い。但し東所が是れ等を一括し且つ培補して「字訣」を大成した事は大要察することが出來る。
// 此の書の内容は、同訓異義の文字の意義を引證辨別し元者で、卷一は篇法助字、卷二、卷三は語辭、
//(助字語辭の別は、一の緒説の部に舉げて置いた)卷四卷五は虚字、卷亠ハ卷七卷入は雜字、(虚字雜字の
//別は、動詞形容詞等の中にて、多く人事に用ふるものを虚字、人事以外に用ふるものを雜字とする旨書
//中に説明してある○)以上各ζ五十音順に文字を排列してある。卷九卷十は實字で、是れは天文・時蓮・
//地理・人品・宮室等、門類を以て分つて居る。但し實際の文字に就きては頗る出入があつて、劃然だる
//區別は出來て居ない。
// 補遺は上編下編續編に分ち、上下雨編は虚字雜字を五十音順に排列し、續編は豈ー乎豈ー也豈ー哉等
//に就いて説いてある。此の補遺は眞に未定稿で、唯例を擧げたるのみで説明はない。
// 要するに本書は東涯東所父子の合同に・ひ6て成つた者で、徳川時代の類書申尤も完備して居るc共の
//卷首に掲げセ篇法助辭及び字例數條の如きも、實に初學を盆するものがある。
//---------------------[End of Page 28]---------------------
// 附記
//  ○新刊用字格三卷             伊藤東涯著
//此の書は各助字の意義を辨析したものではない。助字虚字の用法、例へば「不必信こ「必不ン仁」.「不常
//勝こ「常不v行」.「不二自知こ「自不y信」等の如く位畳の變更によりて意義に變更ある者を、廣く諸書の例を
//集めて辨別したもので、寧ろ文法書に屬する者である。助字虚字の使用法に於て裨盆ある事ば、世既
//に定評あれば今亦贅せす、此の書の刊行に就いて一言する。奥田士亨の新雕用字格跋に
// 此書初稿未v經二改修h嘗被昌坊間竊刻「傳譌匪v鮮、印行既廣、無v由「追究h今茲予休告在v京、謀將二
// 上木h爰就昌定杢逐件校樹、彙分臚列、條貫井然、庶菟噂魯魚之誤頁資離龍之益「
//とある。此の跋は享保十九年に書いたもので、東涯の死する三年前に當つて居る。今臼通行の新刊用
//字格は、定本に據うたものであるが、それより二十三年前、即ち正徳元年に未定稿の慌刊行したもの
//がある○是れが右の跋に所謂「初稿未v經昌改修ハ嘗被二坊間竊刻ことあるものであらう○初刊の方は上
//下二卷で甚だ不十分なものである。初刊も新刊も共に元祿十六年の東涯の自序があるが、文章は全く
//別で、前者には「凡百四十條」といひ、後者には「凡得二三百餘條こといひ、同時の作としては甚だ怪む
//べき點があるo内容に於ても亦大に精粗の差がある。或は東涯の説明を筆記して、それを竊に刊行し
//だのかも知れない。
// ◎文家必用三卷              人見友竹著
//此の書は正徳五年に成つたもので、爾來最も廣く行はれて居る。太史公助字法の題言十則中には
//---------------------[End of Page 29]---------------------
// 世間助字解.不y下數十書爺其最膾炙者、文家必用、訓譯示蒙之類大宇妄鑿絶亡v可v取矣.
//とあつて、果して妄鑿にして取るべきなきか否かは、固より速斷の限りでないが、當時如何に此の書が
//行はれたかは、之によつて察することが出來る。
// 序文によれば友竹始め此の書を著はし、之を講經作文に適用するに大に効驗があつたが、公にするこ
//とは憚つて居た。共の中長崎にて舌人の業をなせる一儒生の、漢人と話説して善く助語を識れる者に逢
//ひ、共の説を聞いて改竄を加へ、屡ζ草稿を易へて漸く出來たのが此の書である○
// 書中分つて三類とし、上卷は和辨類とて多くば副詞を説き、最後に劉姐剛無翊の如き逗綿字二十除
//を説いて居る。中卷は助語類とて韻,契轗等を説いて居る。下卷は分辨類と稱し、多くは動詞である
//が、副詞等も混じて居る○和辨類と分辨類とはいろは順に排列し、説朋は皆俗語にて其の意を辨じ、次
//に例を舉げ、李易明瞭頗る要領を得たものが多いo譯文筌蹄に比すれば、字數の少いのが缺點である。
//引拷せし字書に就いては、凡例中に左の語がある○
// 註中日二字書【者.多引許氏説文、洪武正韻、韻會、培韻、梅氏字彙、廖氏正字通一而證ン之也、
//---------------------[End of Page 30]---------------------
//        六 皆川淇園
// 徳川時代に於て助字虚字實字に關する著逋の尤も豐富なのは、皆川淇園を第一に推さねばならの。之
//を一括すると、
//史記助字法(一名太史公助字法)二〇卷』左傳助字法二卷』詩經助字法二卷』虚字解二卷』續虚字解二
// 卷』實字解三卷』實字解二編三卷』虚字詳解十五卷』助字詳解三卷』習文録十卷
//の十部ある。淇園の博學なると其の著書の多きとは、今之を贅するに及ばないが、此の如く字義の書の
//多いのに就いては一言しなければなら兎。
// 洪園は字義に特にカを用ひた人である。而も助字詳解卷首の認論に、
// 字義ハ字苔ノ注ニョリテ其大略ハ知〃レトモ、其精義に至ソテハ、其文字ノ聲ニコ一ソテ、易ノ開物ノ
// 法ニヨリコレヲ開カザレバ、トクトシタル處ハ知レザルコトナソ。
//と言つて居る樣に、易の開物の法といふ事がある。開物の法に就いては其の著「名疇」(六卷、孝悌忠信
//蟶より心意志情馨κ十九23を説解してある)の初に洋冷してあるが.中〃難解でめるG競世先哲蕨談綴
//編の欠が痂朔で解し紡い〃ら.そμ〃引川;るワ
//---------------------[End of Page 31]---------------------
// 淇園及v長.恒謂.不v知二字義薊文不v可v作.書不v可v解自v是潜恵字書「而字書訓詁、往往假借、不v得二
// 其眞h乃類彙古人用字之例反取二諸象形「求昌諸聲音門乃始悟」名物之義生二於聲音百.名生=於聲嚇
// 聾生二於物h物生二於天地陰陽四時之有v常煮統轟乎道徳賀=乎性情嚇發二乎聲氣「著一乎民言ハ故易説
// 卦傅ロ.紳也者、妙昌萬物爺爲"言者也、凡聖人之道、辨v名爲v要、名明則物察物察則文義正當矣.
// 繋辭徳日.夫易何爲者也、囲物成ゾ務、又日、聞而當v名.辨y物正v言.淇園既知聲音杢於易h以定`音
// 記象式之法百、以v是開二名物之義薊雖二精微之極「亦可二以得逋曉冖焉.字義既逋、文理始晰、而後
// 讀二古人之書「則明白如v掲v日矣,
//と.以て其の意見を見ることが出來る。故に淇園の解は甚だ詳悉深奥ではあるが、往々奇闢に戴するも
//のもある。
// ◎史記助字法(一名太史公助字法) 二卷
// ◎左傳助字法          二卷
// ◎詩經助字法          二卷
//〔三書編述年代〕 淇園の門人堀榮吉の左傳助字法の序に
// 曩者淇園先生、使下令・木・岡二君.就二左司馬二氏之書ハ各輯ボ共助字上也.
//とある逋り、淇園の命によつて門人等が史記左傳兩書の助字を輯録し、それに淇園の説明を加へだもの
//が、右の内史記左傅の助字法である。門人命木龍の記する所に擦ると、原稿は史記左傳兩書混合して居
//たのを、後に史記の部と左傅の部とに分收して、兩助字法として出版したのである。
//---------------------[End of Page 32]---------------------
// 史記助字法は寳暦十年の出版で、淇園が二+亠ハ歳の時である、是れから推すと、最初門人に助字の輯
//録を命じたのは、淇園が二十三四歳の時であつたらう。
// 左傳助字法は朋和六年の出版で、九年も後れて居るが、吏記助字法の奥付に既に「左傳助字法、出」と
//豫告してあるのを見ると、略ぱ同時代に成つたことは明白であるc
// 詩經助字法は史記助字法より二十三年後の天明三年に、淇園の子篁齋の序文を附して出版されて居る
//が、其の序文中に、
// 蓋、先・是吾門嘗有二輯繁詩經助字法上者h業未v就、而稿見存二於塾h乃與昌安威生一謀.更共訂v之.
//とあるより察すると、是れ亦門人が淇園の命によつて輯録し、それに淇園の説明を附したものである。
//其の初稿の成つた年代は明白でないが、何れ前の兩書と相距ること遠から澱頃であつたらう。
//[内容〕 史記助字法は、載する所の助字凡そ二百二十字、近似の字を類排し、而も毎字一用v耳法=用二而已一塗
//といふ樣に、標題を掲げて一逋りの説明を爲し、次に其の文字を用ひた諸例を列舉し、各例の下にも處
//處簡單な説明が附せられ、其の各例の出處の如きは丁寧に枚數及表裏まで記してある。
// 左傳助字法は、.載する所の助字百九十徐、類排、出處、説明等は史記助字法と略ぽ同一であるが、例へ
//ば一用・也法一といふ詭明の末に冖略慶といふ一類がある樣に、省略の標題が設けてある。是れは其
//の助字の有るべき處に略せられて居ることを説いたのである○此の省略の事は史記の方にも毎字の末に
//例を出して説明してはあるが、特に標題を附したのは左傅助字法の方が進んで居る。
// 詩經助字法は、載する所百二十七字で、大體は前の兩助字法と大差はない。末尾に「讀詩要語」といふ
//---------------------[End of Page 33]---------------------
// 十六枚程の文を附載してある。
//〔詐論〕 史記助字法題言十則中に曰く、
// 左氏國語.倶有昌出入司馬班掾、互見輔異同h世途以謂、古人用字.無v有定律h殊不v知、彼獪昌授v環之
// 屈垂h自不v得v不v然也、其矩度何曾差二銖分「故是編命v題立v法、亦掲一其三尺一也、
//と、左國史漢各書、各ζ助字に異同あるは論を待たない所であるが、之を見て直ちに助字に定法がない
//といふのは、固よb妄論である。其の異同の中に自ら定法の存する者あるを會得するのが緊要な點で、
//それには各人各書に就いて探究しなければなら瀰。左傳助字法の序文には能く此の意を説明して居る、.
//曰く、
// 至論共微ハ蓋亦人々有二其蜑夫人異則所v慮各殊、所慮各殊、則言亦隨別、言見二之干文辭「文辭託二
// 之於助字則安得二其同雍v然、古今載籍汗牛充棟不v啻也.我能讀【其書蒄二其意「其所喪縁赤託轟
// 之於助字則又安得其不向蓋其不v同者形、其同者情、今苟欲朗二其微h無如下精究一書→審其形触
// 逋'其情亠焉彼已渙然氷釋.
//助字の用法は、人により時代によりて異同があるばかbでなく、文體によつても自ら異同がある。故に
//吏記左傳中にあつても、韻文を引用したものは除外してある。是れは當然な注意で、題言十則中には左
//の逋りに言つてあるo
// 賦騷銘賛之類所v用助字、典雅精湛.自爲「二蟻與散文所7用、不ゾ可噌混鎖別有二成書嗣謀登梓「
//「別に成書あり」とあるは、或は詩經助字法を指すか、若し別に賦騷の助字法があつたとせば、出版を見
//---------------------[End of Page 34]---------------------
//るに至らなかつたのは、甚だ遺憾であるo
//要するに、從來の漠然πる助字の研究に一歩を進めて、各書に就いて其の用法を精究せんとした淇園の
//着眼は、實に敬服に値すぺきもので、而も淇園が二十三四歳にして此の着眼をなしたとせば、盆ζ其の
//卓見に服すべきである。
// 〔附記〕
//  ○論語助字解      臼田陽山
// 各書に就いて其の書特有の語法を知るのは誠に大切なことで、此の書の如きも參考すべきものと思ふ
// が、未だ見ない。江村北海の授業編に、
//  矣の字の如き、先輩多く決定したる所にある字とし、和語のテニヲハの「なりけり」などに比する
//  を、臼田陽山と云ひし人の「論語助字解」に委しく是を辨じて、和語の「ならん」と云ほどの義とし、
//  論語中の矣の字を多く擧て其説を證す。今其一をいはゴ「巧言令色、鮮矣仁」とあるも、聖語は逍切
//  ならす。天下のひろき、決して無とはの玉はす、まつは鮮からんとの玉ふなりと云ふ類、一々よく
//  聞えて、其説を見れば、いかにも「ならん」と云程の事と思はる。然れども其擧げざる矣に「ならん」
//  と讀みては一向すまね所あり。「不幸短命死矣」などの類なりo 陽山に限らす、何れの説もか》る事
//  多し。一偏に定め難し。
// とあるにて大凡其の書の一斑が窺はれるo要するに、 一書中の助字を研究するには、全部の助字を集
// め、己の説に合すると否とに關せす、公卆に到斷する樣にしなければ、眞の研究は出來ない。
//---------------------[End of Page 35]---------------------
// ◎虚字解        二 卷        天明三年出版
// ◎續虚字解        二 卷        寛政四年出版
//門人の序によると、淇園は壯歳に「虚字詮譯」といふ著があつたが、完成せすに其の儘になつて居だの
//を、二十許年を經て門人の懇請巳むを得す之を補完したので、僅かに二十日間に成つたといふことであ
//るo是れが虚字解であるG
// 遍周普等の虚字を類集して五十音順に排列し、説明は極めて簡矍・である。凡例によると、甚だ精密な
//部分もあつたが、初學の逋曉し難きを懼れて簡易にしたとある。説明の語は淇園一流の文で、合點し難
//い處が多い。
// 績虚字解は虚字解に後る丶こと九年にして出版された。序文に據ると、虚字解に遺漏が頗る多いので、
//門生等が補ひ集めて又數千百字を得たので、讃園に其説明を請ふた處が、凡そ三ヶ月で筆授を畢つたと
//いふ。全く虚字解と同一體裁であるo
// ◎實字解   三卷   寛政三年出版
// ◎實字解二編     三卷     不   明
//初編の方は、天文、地理、衣飾の三部に分れて、天文の部六十一字、地理の部二百五十四字、衣飾の部
//九十四字で、大抵近似のものを類排してある。毎字の説明は古語古句及び詩句等を引いて博證横説し、
//大に參考すべき所がある。
// 二編の方は、時令、宮室の二部で、時倉の部を一冊とし、宮室の部を二冊とし、設明は初編と略ぼ同
//樣であるい
// ◎虚字詳解    十五卷    文化十年刊
//此の書は序跋がないが、町版された文化十年は、抵園の歿後亠ハ年目である。婁園晩年の著であらう。
// 虚字をいろは順に類排して詳密に説明したものであるが、中には名詞も混じて居る。助字詳解の序に
//「虚字解獨簡奥、因更作二之詳解ことある逋り、前の虚字解を詳密にしたものである。然し其の説明
//は一種の文章で甚だ解し難いo其の一例を示すと、
// |姿《スガメ》、,ソレガ向フヘモッテユクフヲガ、コチラ.!カヤウト思フニハヅレプ我ヲソコニモッテ、ウツ〃コ
//   トニスルト云フコトニナ、物ノ體ノタチユクシナノブリヲ姿ト稀ス、唐書太宗紀一一太宗生四歳.
//   書生見v之日、龍鳳之姿.トイヘルモ其體ノ立ユキタルシナノプリ合ガ龍鳳ノ如クナルヲイヘル
//   ナリ(下略)
// ◎助字詳解    三卷    文化

トップ   編集 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS