#author("2020-02-17T17:48:23+09:00","default:kuzan","kuzan")
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[[有坂秀世「唐音に反映したチ・ツの音価」]]

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/12.pdf


 ここに私が述べて見たいのは、主として唐音資料に反映した所の、[[鎌倉時代]]の[[國語]]の音韻状態である。
 [[鎌倉時代]]の[[唐音]]資料としては、當時の文獻に見える[[唐音語彙]]は勿論重要には相違無いが、その數が極めて僅少である。それらに比すれば、質の正確さに於ては勿論劣るが、量に於て豐富なものに、禪宗寺院で[[諷經]]に用ゐられる唐音がある。言ふまでもなく、それらは久しい間口から口へと傳誦されて來たものであり、文字に書き留められたのは、大部分は[[江戸時代]]に入つてからのことである。その音韻状態は既に全く日本化して居り、無論傳誦の間に生じた訛も少からす混じてゐることとは思はれるが、これは[[陀羅尼]]なり[[回向文]]なりの全文を[[唐音]]で誦するのであるから、單語の場合の如く断片的ではなく、その傳來時代に於けるその[[支那方言]]の音韻組織の全貌を髣髴たらしめるに足るものがある。從つて、一般の經文讀誦の奥書や[[天台]]・[[眞言]]兩宗所傳の漢音などと等しく、[[國語]]及び[[支那語]]の音韻史料としては極めて重要なものであるのに、その[[言語學]]的研究が今日まで等閑に附せられてゐたのは遺憾なことである。



(二七) [[史學雜誌]]第四十八編第八號所載[[森克己]]氏「日宋交通と日宋相互認識の進展」に據る。
(二八) [[支那人]]の側から[[日本語]]を觀察Lた例を求めて見ると、まづ、[[鎌倉最初期]]の日本僧[[安覺]](備中の人)の發音を南宋人[[羅大經]](江西省盧陵の人)が漢字で音譯した例が、[[鶴林玉露]]人集卷四に出てゐる。その中に日本語のクチ(口)を「窟底」と記してゐるのであるが、「底」は端母(t)の字であるから、[[安覺]]のチは多分tiに近い音であつたらう。次に、[[元末明初]]の人[[陶宗儀]](浙江省黄巖の人)は、[[書史會要]]卷八の中に、日本僧[[克全大用]](傳未詳)から教はつた「いろは」の讀み方を記してゐる。その中に、「ち」を「啼又近低」と註し、「つ」を「土平聲又近屠」と記してゐる。その中「低」は[[清音]]のチに、「啼」は[[濁音]]のヂに、「土」は[[清音]]のツに、「屠」は[[濁音]]のヅに充てられたものと思はれるが、これらの文字はすべて舌頭音(t d)に屬するものであり、從つて[[克全大用]]のチ・ツ・ヂ・ヅは寧ろti tu di duに近い音であつたらしく思はれる。但し、此の克全の發音が果して當時の標準的發音であつたかどうかは判明しない。
(二九) 江戸時代に於ては、ヒヤウの假名とヒヨウの假名とは音韻的には等價であつた。〓は[[小叢林略清規]]にはヒヨウと振假名されてゐるけれど、ヒヤウ・ヒヨウの間に音韻上の區別の有つた室町以前の時代ならば、恐らくヒヤウと書かれたであらう。
(三〇) [[Giles]]の字書に記された輝の寧波音hweiは、系統から言へば文言音系に屬する。


(三二) [[趙元任]]氏著「[[現代呉語的研究]]」聲母表參照。


(三五)[[黄檗]]文献では、例へばイ゜(於・于・語)キ゜(去・居・懼)イ゜ン(云・雲・運)等の如く、イ列の仮名の右肩に小圏を付することによって[y]母音を表すことがある。「[[慈悲水懺法]]」(寛文十年)巻末の[[国字旁音例]]の中に「凡旁音有用小圏於上者矣。如イキ字須撮脣舌居中而呼之也」と言ってゐる通りである。然るにまた一方では、「如パピ等字先閉脣激而発音余倣此」と言ってゐる如く、同じ右肩の小圏が[[半濁点]]としても用ゐられてゐるので、ピのやうな字形は、pi  p`i  又はhüの何れとも解せられることとなる。[[黄檗清規]]が虚にピ又はピイと振仮名してゐるのは、無論、piやp`iではなくて、hü類の音を意味するものである。



(三七) 橋本進吉先生「[[波行子音の變遷について]]」([[岡倉先生記念論文集]])の御説に據る。
(三八) [[韻尾]]の〔m〕〔n〕の區別は、[[宋末元初]]の頃、[[北方官話]]ではなほ保存されてゐた。併し、當時の[[呉方言]]ではどうであつたか、不明である。
(三九) 火箸の箸の[[假名遣]]について、[[大言海]]は、[[下學集]](下、器財門)の 「火箸《コジ》」を引きながらもそれに從はず、却つて「[[正韻]]『箸、治據切、音|宁《チョ》』ナレバ、こぢナリ」と主張してゐるが、この論據は不適當である。何故なら、[[正韻]]は近代支那音に基いたもので、その切字には[[澄母]]と[[牀母]]との區別が無いからである。火箸の[[假名遣]]は、宜しく[[下學集]]・[[温故知新書]]・[[運歩色葉集]]等[[室町時代]]の[[辭書]]類の記載の一致する所に從つてコジとなすべきである。
(四〇) [[黄檗宗]]や[[心越派]]([[曹洞宗]])の[[諷經]]の唐音、その他[[江戸時代]]に輸入された[[唐音]]の資料については、拙稿「[[江戸時代中頃に於けるハの頭音について]]」([[國語と國文學]]昭和十三年十月號所載)の中で説明しておいた。



//有坂秀世
//「諷經の 唐音に 反映した 鎌倉時代の 音韻状態」
//http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/kuzan/20070630
//https://app.box.com/s/pwl7vi82e4k9h6ffln1bfg26vohotzvx
//http://www62.atwiki.jp/kotozora/pages/9.html
//有坂秀世『国語音韻史の研究』
//<!--
// ここに私が述べて見たいのは、主として唐音資料に反映し乞所の、鎌倉時代の國語の音韻状態である。
// 鎌倉時代の唐音資料としては、當時0文獻に見える唐音語彙は勿論重要には相違無いが、その歌垣極めて僅少である。それらに比すれば、質の正確さに於てぱ勿論劣ふか、筑に於て豊富なものに、詞宗寺院で謳経に用ゐられ石唐音垣あ乙。言ふまでもな乙ヽ、それらは久しい間口からロヘど傅誦されて来たものであり、文字に書き留められたのは、大部分ぱ江戸時代に人つて垣らのこざである。その音韻状態ぱ既に全;日本化むて居ゎ、無論笥誦の間に生じ社説も少知らず混じてゐることざぱ思はれふか、これぱ陀羅尼なり回向文なりの全文を唐音で誦するのであるから、単語の.場合の如く噺片的ではなKX-*その修来時代に於けるその支那方言の音韻組織の全貌を弓弩だらし妁るに足るものがある。提つて、一般の経文読誦の具苔や天台・真言雨宗所体の漠曹なVi w等し≒図語及び支那語の音韻史料としてぱ極めて重要なものであらのに、その言語學的研究垣今日まで等閑に附せられてゐたのは遺憾なござである。
// 今その資料の主要なものに就いて略優しよう。そ江には先づ浙規顛の一群がある。その中、臨滞関係のものfしてぱ、諧回向唐規式五巻及び小叢柿絡情規三巻垣あ芯。
//諧回向清規式は、旧暦三年に刊行されてゐろ炉、本文の旅に`訃太識E三月吉阪永源遠孫現住天倫比丘ル影ざありヽ
//これが著者の奥書であらうど思はれる。明贈版でぱなほその後に保寧徘師示看経・接浄三絃誠看経1中奉和宵座右銘・大息岬師資願文を附載してふる、現今、書肆で求め得る新刷本も、版木ぱ同ここ思はれるが、むご、謳の最経の二
//偏理の唐音に反侠した綜合時代の音韻状態
//一八一
//                                         }八二
//枚を羽車で書き換へ、且附録仝部ざ明暦三年梓行の刊記ざを削除し、その代りに諜彫諧回向清規云々皇都京極侑書伴友松堂常信謹誌の文字を入れてゐ芯。
// 小叢林路傍規ぱ、無着道忠の撰で、貞享元年の自序炉ある。刊本ぱ、その経に龍華蔵版ざ記す。道忠ぱ、洛百花園妙心寺山内龍華院の第二胆で、賓水囚年勅旨を以て妙心本山の住持職に袖せられ包。天資頴敏、博兇強記にして、一代の著書六百六十有一巻に及ぶ。中にも、値林銀器箇の如きぱ、唐書研究者にどつて訣くべからざる参考書である。
// 次に、曹訓関係の資料としては、永早道元岬師荷扱二巻・螢山和貴清規二巻・洞上翰堂傍現行法妙五巻がある。
// 永平坦元値師清規ぱ、道元の遺著たる六部の書、典座教訓・辨道法・赴粥作法・東京清規・対大己法・知事清規を集めたものである。寛文七年、永平寺第三十代の智堂光紀が辿之を巌簡の内に得て刻せしめたが、此の版には唐書の振仮名ぱ附せられなかつ包。後世流布す芯所の本ぱ、寛政六年刊行の「E水早道元値師傍規」である。これぱ、卯中玄透か穏述に依司して葺版を校訂せしめ包もので、その中、赴粥作法所載の諧回向文並に十佛名には、唐晋の振仮名が附いてゐる。本書は、通常ぱ単に永早傍規ざ陪排せられ、叉後に玄透自ら著す所の吉詳山永早寺小傍扱ざ哀別する包めに永干大傍規ざ呼ばれることもある。
// 螢山和貴清規ぱ、偕堂清規凡例に篠れば刊本三稼あるどのこざである炉、流布す芯所ぱ延賓九年の版で、大泉寺の巴山道白の校訂し包ものである。分つて上下二巻ざなし、別に坐値用心記をも附載してゐる。かつて大乗寺の住持月舟が之を古朧の中に得て一堂の中に行はしめてゐるものを' Ft!山が謄寫して梓行し仁。併し、それには誤が少くなかつたので、その後見に好本を得て対校し、陪臣常に飾するを得’て、再び登刊せしめ包ものであるこVJは' Fy山の延賓六年序によつて知られる。
//―ーーーーーj
//訓上骨堂浙現行法印ぱ、瑞方面山の著す所で、賞誉元年の自序あり、同三年に刊行されてゐ芯。外題には「11骨堂
//贈規」ざあふ。その後、蜜語五岬、浙に考訂三巻を添へて再刊さ収記。面山ぱ若狭官印寺の前作で、著書ぱ甚だ多い。
// 評家の唐規期としては、これらの刊本心外に、なほ真本として俳へられ仁有名無名の宵が多数に存ずらここぱ、俯堂浙規の凡例や駒憚大脳回書前編「絹物目録」など句江て・ち知ら汪石所である、私・い所持する寫言のーつに、「大泉維那ロ俳」ざ題すふもの折ある。巻頭に帽言柿大泉崖囚絹皆維那謬詰ビ記し、同寺0掛儀式の作法・を脆明し仁ものであ石。又、頂廃山即売寺で行は杵てゐ不掛回向の文を巣め記本征ある、書名は明かでない。経に鹿山中桧嶺院周超主ざ記人してあらのは、多分所持労い名であらう。こーれらぱ附四資料として有谷匹もDである。
// その他、個々の儀式に図する軌範句記し仁ものとしては、額四脱法・施餓鬼二羽上唱俯法等の言征あぶ。
// 影回収法の掛字を皐げるについては、勤行用の潜字ざ往憚書ざル亘別しなければならない。往憚書ざぱ、例へば宣文三苛忖上早察寺四版の本の如さかそれである、この字ぱ‥まづ戦法之起こ題して顕四脱法の由来シ漢文で述べ、次に本文々・出して、同じく漢文で註憚征旅してあ乙。併し、唐四資料として役立つのぱ、左に皐げろやうな勤行用の潜本の二期である。
// 額四懺法0潜水は、帽常に古くしら現仁てゐ芯。古真本としてぱ、かつて弘文賄待頁古書目第九覗に真真の出た室町時代の真字「願四肢儀」一息(玉江)おり、私ぱ南嶺和言具跡ざ俳へる「脱宗法」一冊を蔵してゐる。これらには、いづドら私交に誰々附け、且附言の假名が振つてある。現今書肆で新刷本い求め得ハブム)のとしては、臨滸関係のものに花開校字あお苛刻関係のものに大笑立躍珍本及び秋茲寺聘版本折から。「E心界四欣快」は、妙心寺塔頭春光院o性堂智巡ゲ宣伝三年に妙心寺研修の潜に襖つて上梓し世に行ぱしめリムJが、米ゼ久しヤらすして寝に漫滅し所在の息
//匯糾の唐音に反映した佐倉時代の音頴欧回
//一八三
//                                          一ハ阻
//ふ各所どなつ記ので、天明三年既望上牛‘ぃ繕寫し刊行し記もので冷る。大乗寺漬鸚本「観賞戦法」には、享保十五年の序ど明和ハ半の践ざ炉あ几前者に篠いば、本書は法師の刎生称氏曾て刊する所の大悲微少削袖翻刻し号らのであ芯が、私が別に所持する所の京洛俳花街古称称氏の序あ各刊本はその原版かど思ぱれる。さて、享保翻刻の版ぱ、その後支所五年に重刻さ汪こが、窯月々瞳で崖損し記ので、京都の書質好文厨炉越前扉称精今寓住の香外百順に就いて校正を水戸凡そこで石頭ぱ先師傅率い正本々亘ハヘ、重刊流通せしめこのが、即ち明和九≒版である。その後覚政八年及び文政十三単に反別せられ、明治以後にも版ハ重ねて、現今もその宗門にぼて行ぱれてゐ各。江戸時代及び明
//洽時代に於けろ此の系統の刊本の題笞ヤ見ふに、「大祭寺漬黙付」ざ記したものがあり、現に書肆でも大祭寺版ざ膳
//してゐる。秋葉寺蔵版半ば、「郷
//十七半自高閣三の附すら所でか
//ル和音脱法」ど題し、,天保十四年秋葉山叟泰礎の序文ぱ有芯が、唐音の振役名ぱ明治,r/J右の外、私の所持するものに、文久ニヤ刊行の南扉寺蔵版本あり、これぱ衰永三
//年の販を翻刻し仁らのであふ、これらの外に、こぼ涌出の校訂し記本の存することは、俯堂清規の中に著者自ら言つ
//て居り、叉駒滞大學圖言首綱「濯鋲目録」にも「心{和音減法、一、頂方(百出)」(未収宵)として出てゐるが、私
//は未ゼ見る機合印得てゐない。
// 観音懺法の贈本には、多では脈自の水戸附いてゐる、もつどもその内容は水によつて多少損違してゐ芯、
//  花園校宰  折節脈自・折節小回向・檀見脈自・檀見小回向
//  大泉先議黙示  折節脈{ツ新禧小回向・亡背節自・亡者小回向工」背回向・苛苛回向
//  秋葉寺蔵版本  苛苛脈自二枡席小回向・亡骨節自・亡者小回向
//但し、檀見脈自ぱ亡背脈自ざ同一物であり、壇見小回向は亡背小回向ざ同一物である。右の中秋葉寺蔵版本の「豚肉」
//ぱ、白鳥鼎三の校正する所である炉、全部訓読するやうになつてゐるので、唐音資料にはならない。花開校本の「肺自」ぱ、貪政元年に翻刻し仁すが、年を墜て殆ど漫減に至らんざしたので、安政六年、花園の某尊師に校正を錆び、更に砕行し与らのであ・る。大服寺読聡率の「肺自」ぱ、貪欲八年版の奥附に櫨れば、明和光壬阪初春吉且洛之澗院古稀翁永田右京謀會並安ざある故.逞・^ VJ  ;£>明和光年に観音戦法の改版された際には説にそれに附いてゐたものであり、豆本交ざ同筆で玉砕されたものと見え石。なほ、私の所持する}本ぱ「心肺白」ど題し、題簑の下部に「大乗寺読諭付」「宮腹」ざ印別して高几 版の隈裁から見ると、明かに明和政則以前リらので、恐らく賓暦版か或ぱ享保版の観言戦法に附話してご仁本であらうと思ぱ仁乙。説述の体南嶺真跡本「戦家法」も、後半ぱ右錆本の肺白に相當する部分で、修正肺自・修正小回向・所節節自・所節小回向・諒宿肺白・稼宿小回向・亡骨節白・亡者小回向・逆修肺白・逆修小回向を會んでふる。なほ、面山の校訂し仁観音戦法にも肺白の本が附いてゐることは、骨堂清規の記載によって知ら竹凡錆回向清規式巻第五にも、戦法浦臼小回向之部炉ある。
// 次に、施餓鬼の念誦を記し仁祈本顛としては、花園校本「施餓鬼」一帖、永平寺蔵版「施食法」一帖、平井文永堂飛泉「大飽食」一帖等ゆり、私の見たものは何平ら新刷本である。その中、花園校本ぱ、かの観音戦法ざ同じ;春光
//院の智適の体ふ石所に握り、それから三他日の眺微か文化八年に上梓したものである。「皿施餓鬼蓮念誦」】帖、こ
//れぱ江戸時代の刊本で、囲簑の下部に「大乗昌引」ざ記してあるから、大乗寺所体の作法であらう。なほ、諦忍著「盆供施餓鬼問辨」(明和二半自序、同六年刊)、の中にも、舜京大施餓鬼作法を載せ.唐晋の振慨名を附けてゐるが、著者ぱ箕言京の冊であつて、舜俯ではない。
//「皿皿洞上唱渋渋」一帖ぱ、百出の撰で、寛延三年の自序あり、翌々梓行されてゐる。単に部分的に唐音資料を合
//凧鉄の唐音に反映した識會時代の音韻状態
//一八五
//                                         }八六
//
//む経私類としては、その他にもなほ折に溺れて管見に入るものが少くない。
// 次に陀脱毛類であスこ戸、郷家寺院で股も頻繁に誦せら位芯首将骸紳呪・大悲開演無誕拘睨・消災陀後尾の三つを牧めて一帖の折本’こし記もの戸有る。征の所持するもの三種。その二つば新刷本で、外題ぱ「E将骸児大悲児消災陀羅毛」となってゐる。びら他の二水もこ位ざ略同じ内容ざ鰻裁ざを持つものである戸、並べて対照して見るに、版木ぱ三者各相違してゐる。同一系統の水戸次々に幾度か改刻さ位記ものであらう。コ聊柿日用陀羅尼掛」一帖、これは江戸時代の刊本で、斤目薬餌言以下敷千種の陀羅尼を牧めてふる。この種の陀羅尼掛け他にも幾程か出てゐるやうであ 宋O侵攻の子壇が著す所の首将罷接続注紅(十巻)ぱ、夙に所感二半高師直によつで上梓され、室町時代にも所謂五山版として幾度か出版された。江戸時代に八つでは、寛永九年中野疸伴によつて衰刊されて以来、正保丑年・明博元年・延賓八半ふへ和三年・頁享五半ざ版を重ねてゐる。所謂首将骸拘泥ぱその第七巻に合まれてゐるものであるが、寛永版以来之に唐音り振仮名を附してゐる。その振仮名には、現今回宗諸派に行ぱ位てゐる誦法ざぱ異なるもの少からす、叉ホの仮名として?の字臍を混沼す石など、その韓来の古いここを思はし拍るもの戸ある。なほ、寛文六年版
//「首格好糾合轍」(十巻、明信顕潤編)、明新旧年版「首格好渡海」(三十巻、来信咸輝編)、天和三年版「訪四首格穀
//腹疏注経」(十一巻)、刊年不詳「首梅鼓腹疏集註」(二十巻、浪華沙門天龍編)等に於て首梅暦紳現に附し記唐言の振仮名も、寛永胆系統のものを踏襲してゐるものらしく見受けられた炉、未ゼ正確に対照して見記わけでぱない。
// 「昇降心紅」は、股芳心紅の七程の降を集め仁らのである。私の所持するものぱ貢暦十囚年の再絹本で、経に水戸沙門探盈にょ石貢蒔十二年.0重彫梵漢心経後序が附いてゐる。七降の第二、玄奘降般若波腸畳多心紅の後に、北本雖E
//〃→心WW〃
//一一
//有二失言・体寫久而損啓不ぃ旧故争除ぃ之ざ尹し、ャ来存し仁らしい失費の記載分前除してしま’つてゐ乙のは、學術上遺憾なこざであろ。但し、七陽の後に、般芳心経梵不二程、及び宍萌謁大受詞師将来焚語心経を附載してゐぷ。その中、91{詞師将来梵語心気ぱ、漢字を以て竺デマ芥譚し仁ものであ・e.'その全文に吉言の振仮名炉附いてゐて、有益な併言資料丘汁?らのであ几(梵語心鰹ぱ元禄六年刊「大受給焼緑」にも牧められてふる。)
// 虎涸叫諦の賤分損賂(後には改編されて三重損ざら膳せら汪仁)ぱ、前記の首横鉄纏疏注経ざ同様室町時代から版を重ねてゐるものであろ炉、爽京帝図大學國語研突室所蔵の慶長十七年版や、私の所持す石江戸時代初期刊本(臭に於洛陽二條豆二王門町閉版焉ざ記す)に於てぱ、漢字の左又は正に吉費や・記載してゐる。この二つの本の唐音ぱ、別人によつて各狽立に記入さ作仁ものと思しく、】方が他方今踏襲し仁ものでぱない。併し、いづれにしても、鎌倉時代以来の吉内済賛詞茶席言に屡するごとは疑無い。
// 之に対して、後の可寛二年版「打順啓牛頭賂」ス梢氏文ハ・度度市兵衛繍倅)・延寛八年版「廣益三重損」(印行三兵衛重刻)・天利三乍版「増益三重損L(印行三兵衛・西行七郎兵衛閃版)・元禄四年版「こい聚分損賂」’元禄十一年版「三重損」(柿正五郎又は河南司郎右衛門梓行)等ぱ互に同一系統に賜才呆でヽ番外の併呑の外に、江戸時代に入つむ新しい併呑をも多竟に混じてゐ芯。享保四年版「贋啓三軍損」(栗由宇兵衛壽梓)俳ぱ、支仁別の一系統をなす。それらに記さ紅仁吉言ぱ、全くの固常詰であり’、文雄の所謂「我が場漢の言に不づき更に唐言を作る」ものである。
// 我が回の臨済宗及び曹洞宗(心越尹ぞ除;)の諦寺院に傳へられ仁吉言ぱ、大僣いづれも大同小異のらのであり、提つて、節り相違炉らぬ路代に胎b相違からぬ地方から借入さ但仁ものらし〜ヽ見える。詞宗管侶の中には室阿吽代に入つてから渡支し1:人もあるが、有名な阻叫びこの往来ぱ大部分け鎌倉時代に行ぱれ仁もので、各派詞院の笥統も大
//風紋の唐音に反映Lだ鎌倉時代の音韻妖惑
//一八七
//                                            一八八
//贋は鎌倉時代の間に確立してゐたものざ忌ぱれる。故に、古臨府曹屑糸唐晋の起原ぱ鎌倉時代に在り、末末元初の頃支部0‐所江地方の寺々で行ぱれてゐ記皿経の晋を悔へだものざ考へておいて、大過ぱ有るまいざ忌火
// もつざら、詳細に耶察すれば、その巾にも自ら多少の方言的(又は年代的)差異ざ認めらるべきもの炉無いでもな
//い。例へば、同じ孤苔脱法を誦するにしても、妙心寺でぱ「冬冬期脆」[二切悪鬼」「作十悪業」ざ言ふのに對し、秋
//       コ コ ウ キ  イシイヲキ   ソジヲネ
//紫寺では「冬冬期脆」「一句悪鬼」「作十悪業」ざ言ムのである。
// 現今、訴訟地方の多ぐの都邑の言語では、多数の文字には文言言ざ白活言ざ炉据別されてゐる。卸も、一字に二つの言炉有つて、読書にはすべて文言言を吊ゐ、自活言ぱ専ら談話にのみ吊ゐられる。但し、談話の中でも、幾分文語めい竺尚肯なm語にはやぱり文言言炉用ゐら汪るのであ芯。而して、文言言ぱ概して官話に近い特色を持つてゐる。
//例ぺば、費節の頭費について見ると、自活費炉微母に〔竺〕を吊ゐ目母に〔己等の社費を用ゐるのに對して、文言呑ぱ細心に〔こを用ゐけ母に〔z  dz 3 <W額の費を用ゐる。これらの黙について、我が古臨済曹洞系唐音ぱどう
//かど言ふざ、まづ、倣母ぱ一役に八行晋で現れ、マ行苔の形を持つ例ぱ稀である。例を小叢柿賂浙規にざれば
//バン  プ  バン プン プン  ヒ  プ(ム)バウ(マウ・モウ) ーヘ  ーヘ萬・物・晩・文・聞・尾・無二ヱ ・ 味・微
//目録ぱ一般にザ行の形で現れ、ナ行の形を持つ例ぱ稀である。
//  ジヤ  ジ  ジン <\ン  ジ  ジ  ジ  ジン ゼン  ジ  ゼ ジヤウ ゼン シン ネウ
//  若・日・仁・勁.如・而・入・人・然・二・燕・禧・染・稔・慾
//ぼち、我加古臨俯盲判茶唐背は、背節の頭背に現れ仁特色に於てぱ、現代所作方言の文言言の方ざ一致してゐるわけである。                             、
// 併しな加ら、古座俯首湯茶店背は、服形の方から言ふぺ寧ろ、、現代所江方言の白諸費の方に近い特色を示してゐ
//る場合が多い。例へば、江・螢・山・歌・銀・綬炭俵の開ロニ擦は、才芸言では官話ざ同様に揚言化してゐるのであるが、古臨溥豊洞系吉言ぱ、原則としては、自話言ざ同様に流言を現してそう
//  アン  ア  カ  カ  カイ カン  アイ  ?  カン カ″ カウ カ(キヤ)
//  琥・退・受・學・界・鑑・解・下・監・閲・交・家
//父、梗俵一等に於て
//
//  カン  アン  アン ワン サン  カ  ヤ  サ  ≫       <-        <       ≪
//  更・行・衡・宏・生・革・厄I鐸・獲・伯・百・格
//のやうにアン(人脈ア)頷が現れ、骨折の一等
//  レン テン テン テン ネン ズン  ペン ゴウ コウ  デ  デ  テ  リ  ク
//  柊・等・燈・登・能・増・冊・但こ且・徳・特・得・冊立剤
//"fj孤弱?ユてゐるこごも、白話言の方ざ似てゐる。文言言では、官話ご澗様疑俵の開ロニ等は一般には分権の開ロー等(牙吸呑でぱ時として梗骨俵の開ロ三囚等)ざ同君になつてゐるのである。次に、古座潜豊潤系吉言に於てぱ、蟹撮の合ロー等ぱ
//  ウイ タイ ウイ ヌイ ツイ らイ モイ
//  ㈲・外・會・内・皿・昧・埋
//
//の如くウイ・オイ顔を現し、土俵の合ロ皆
//ffEィ ●趾 ●位ィ
// と  イ輝・鴬
//及び蟹撒の合口同等   イ  キイ ペイ
//   些で桂・康
//ざ
// ジ  ll  キ  イ  イ  や  イ  キ  イ シイ(スイ)ルイ毛言説・隠∵琥工率・鬼ふ堡規・薗・水・類
//(少・v VJも牙喉言の場今には)亘別されてゐる。これ亦白話言の特色ざ一致するものである。文言言では、官話の
//場合ざ同様、血揚の合口費及び蟹揚の合口口等は、釜揚の合口ー等ざ同音になつてゐる。又、古座滸賛詞系唐音では、
//凧長の唐音に反映Lだ鎌倉時代の音類状態
//一八九
//一丸〇
//早飯撮の筒口三囚寺は
//
//  野・旬・者・捨・謝・迦
//の如〜ヽャ願になつて戸石。現代の・訴汀諧予言に於てば、文言背け一役に官所ざ同様なぞ顔を段し、之に對して、自所管は一役にヨ預印現してゐろ、そ仁政、市‰府葺澗糸田背ぱ、この夥に於て七自活背の方に近いわけである。
// 和やうに程察し果首ば、我加古臨浙百.剖糸附言ぺ現代訴訟諸方言の文言背・自活背どの回鎬は、なかな和抄づ和しい問題である。緯糸加我が因に饌へら但祀頃の訴訟地方は、完全の南波に伴ひ新しい支配印紙の一群が北方和ら移つて果て以来未だ久し和らぎぶ跡代のこざてある政、方言的階級的に見てかなり撹雑な言証欧態に在ったことは、俎俵すSに錐;こい所である。それらの事情をも考慮に入れて、こぼ但東に研究しなけ杵ばならない。但し、全醗として、右岸滸好個糸所行の支那原背加現代訴訟証方言(莫方言o一部)ざ全然闘糸統のも0に非ることは、腸拓てよいf見よ。
// 我加古臨浙百伺早田背は、饌米以複数百年の久しさ亘旦つて俗諦さか果つドEのである和ら、その問には緋比も少和らす生じてゐらこざと見ぱ汪乙。例へば後〃后・1厚の願加ョォ(通例ョウざ盲いてある。)ど呼ばれ石こざの如きは、普通の漢音・哭背ざ除りに相違してゐるので、謳しも不見議な背と見ふであらう加、これらの文字の現代訴詐言加、寧波〔fべ〕濃州〔言言全章〔不言永世〔ごとであり、これらの明代の☆背戸別聡賓や全昆閣によつて不コ迂寫されてぬふことを知ら浙にざつては、伺ら賠くに足乙こミてはない。古米子方言に於て所行の頭背〔コ〕加極めて
//微弱に発行さねらここ(湖貳
//耶匹・77か寺の如;)は、入のÅ〜ヽ知る所でよこ。そ作故、侠骨時代に我が因に饌へ
//ノりjnー‐rt。ツ『―-"">・-" 0                          O                          O
//られ仁雪隠の形は恐らくTウ(支部厚苔は恐らく〔ブヨ〕見よ百苦〕)でかつ記○が、ちやうど「受ケウ」かつ安手
//1
//心心心か∽`4~~心=
//k-= 4
//嘔岬(≒〃
//。ォ」に便じ仁のざ同様に、いつし畑洗つてョォざなったものであらう。これぱ、決して後・后・厚の場合付けに限ったこざではない。供頭炉ョォの顔形で現れここどけ、古臨滸有絹糸唐音に於ては一般に通する原則である。例へば、垢・口・斗・引ば各キョォ・キ。才・チ。才ーチョォの形になつてゐる。これらも惚末常割にはケÅ;テ‘古の形であつとに相違無い。(因みに、費聚附言ぱへ’ウ・ケパウ・一丁ウであ芯。)
//
// 併しながら、古座府有利糸附言の特色の中には、よくその錐来待代に於け洽囚語の音韻状態を庶政してゐるものが少くない。例へば、将宗語瀧の中には、知客・直康二竹箆のやうに、支那原音の舌上背をサ行の形で悋へてゐるもの    リンジ                   ○    ○    ○                               `
//がある。宏智正光将帥のシも同轍である。これらぱ普通の漢音・呉音でぱク行の形(チ・チク等)になつてゐる場合であるから、事情に通しない人ぱ単なる偶竟的な特詣のやうに幄く特へるかも知れない。どころ炉、律宗寺院で行ぱれてゐる皿脛の唐言を見る迂、舌上音に於では
//似ド
//シン  シ  シ シユン サン シン セン  サ  サ  セン ジン  チ  タウ 斗ヤウ チヤウIS
//饌・智。戟1申・湛よて特ふで茶ふで程こで椋I超・長刑    (小賞杯略清規)
//のやうに、寧ろサ行の形の方が原則的である。稀にタ行の形になつてゐる例ぱ偶流言背の影響を受け記場合に過ぎないのでぱないかご思ぱ紅芯。(右の四つの例外の中、逐日ぱ、小鼓桂庵清規でぱチジとなってゐろ炉、既・他の圓曼寺の   註二三  〇 〇 C 0                                                                                                                         O      O       O                                                                                                           '
//謬回向集でぱシユンジとなってゐ芯。叉頓超ぱ、小叢林済済規ではツンチヤウざ振原名してあるが、謬回内府規式や               o o o  註二m
//圓曼寺の諧回向巣ではツEヂヤウざ建濁してゐるので、小鼓桂略演説の場合にも、或は濁黙が庵してあるのかも知れない。)濁音の場合には、江戸時代にはジ1ズざデ乙ツざの音頂上の饌利か既に失はれてゐ記ので、その時代に記録されむ謳紅の附言ぱ、資料としてぱ大して役立こない。
//ジ ジ{ヂ) ゼン ジ(ヂ)ジョウシン{ヂン)ジヤゥ ヂ  ヅ ヂヤゥ仕立7偉・値・仕7塵〃丈・除二厨・長皿
//凧控の唐音に反映Lた鎌倉時代の音韻歌隻
//(同)
//一元一
//                                                           }九二
//併し、鎔炉ゼンとなってゐる黙には注意すべきである。又、室町時代の斟書類では、火箸ぱ、すべてシの濁(チの濁
//でなく)を以て亥されてゐ凡故に、濁費の場合にも、恐らく、本来ぱ浪費の場合ざ同様な状態ごったのでぱないかざ想像される。
// かかる現象の起つむ理由についてぱ、かつて費儒學協會會報第四十七読所栽拙稿「唐音に反映しごチ・ツの香資」の中に庶明しておいた。即ち、知・微・療清母ぱ、古くは〔ニ,ゐ類の単純な破裂費であり’、その端・透・定母ざ異なる所は、ござその謂号泣置が梢後方に存する玲に在つむ。併し、末代の間に、知・徹・攬母ぱアフリカータ化して〔ぶ妬公〕ざなり、その結果、正海苔系の照・穿・休母ざ同音になった。従つて、末末元初頭の支那語では、知・徹ふ愕母ぱアフリカータ〔ぷ妬公〕の状態に在ったわけである。然るに、日本語のチ・ヂ・ツ・ヅの費ぱ、當時は末ゼ後世のやうな〔t$i thi tsn dz已にはなつて居らすヨら1{ざ〕比近い状態に在つ几それか、鎌倉時代の日本人の耳には、〔芭〕(知)〔応召〕(中)〔公言(箸)のやうな支那費ぱ、チ〔乙チェン〔{・甘言ヂ〔E〕よ’9ぱ、寧ろシ〔ヨシュy〔?已ジ〔ど〕の方に近く聞え仁ものざ壽へられるのである。
// 高言系統に屡する双聖こ日清・椅子・恒子の双三兄〕清〔兄ぎ〕子〔鴬〕の類が、チュウ・チン・ツ・yjfc*1らずし
//て言ウ・シン・スとなってゐるのも、やぱり同じ理由によるらのである。岬宗寺院の佩経の昔でも、朧言系統の曹ぱ、その支那原音が旱純窄擦苔記るとアフuカーク記るとを問はず、すべてサ(ザ)行の形で偉へられてゐる。
// 之に対して、例へば土地堂・都間で都寺立居賜などの如く、支部将のt   tu類の晋には、常にチ・ツが完てられてふる、その結果、凱梶の吉言にも、左のやうな面自い針立が現れてゐる。
//   ` 令 (チ)    ご           知 (シ)    包
//==~f=≒〃トkら=〃心
//一・-一一
//     頂 (チン)   tin          誼 (シン)   ぶぶ
//     都  (ツ)    苔           阻  (ス)     {否
//     束 (ツン)   t-un          紡 (スン)   芸名
//     頓 (ワン)   tll<)ll         尊 (スン) .    ts nan
// 古座潜曹洞系唐音の輸入さか鎧時代、即ち大磯鎌倉時代の頃、回読のチーツの晋俄か、未ゼ〔芭〕〔’売〕には遠く、寧ろ〔凸〔芒〕に近いものであつたといふこどをよく立澄してゐる。
//    シ カ  シヅペイ シツペイ  コ ジ シユウシン フシン  イ ス  モウス  ツ や   ツウプン 2"ts   ≪        *・・>ケウ
//右の知客・竹箆・直立ふハ箸二代聖二日請・椅子・撰子・土地堂・都聞・都寺こ鍔陽等の語の唐晋漬みぱ、何れも
//室町時代の跡宵類に能に見えるものである。さて、次には鎌倉時代の文献から材料を拾つてみよう。
//
// 我が圃に最初に綴宗を簿へ記楽匠岬師の帰朝ぱ、建久二年のこざであった。而して知客の唐誉読みぱ、仙畳の萬葉集注憚巻一(文水六年)に能にその澄を見出し得るものである。又、大筒蒙古竪来頃の作ざ推定される塵袋には、畜生の栄誉をシクサンざ記してゐるので、第十三世紀末にはチは末ゼ〔己に近い誉であつ記こざが澄明される。又、
//           ・                           註二七                   〇            〇その第十二巻に建治元年北條宵待の奥吉ある保坂潤治氏所蔵名語記には、當時支那で微賤を會子ざ言ひ之をウイスざ読んでゐむごいぶ、帰朝浙の談を載せてゐる。鎌倉時代の頃日本語のッ炉末ゼ〔ど〕に近い誉であったこざを澄するZEI K
//に足る。
//
// 次に、興味瓦石問題ぱ、古座潜置酒茶席誉に日本語の八行誉が如何に仄字してゐるか、といふことである。
//
// 試みに、妙心寺派の小叢林賂清規に就いて、佩経の附言に陽母(支那原誉〔己)の頭誉が如何に反映してゐるかを観察してみると、
//
//    風鈴の唐音に反映Lだ綜倉時代の音頷状態                       一九三
///
//   キ  キ  ク-ガイ コン  ケン  コ   1  クワ  クワ  クワ カウ キヤウ キルウアrャ『ン)キン
//   肴ふで虎・真二甘ご厭・鋼∵火・化二化立言航’・向’谷 ・ 灰ハ
//
//のやうに.、大部分はカ行の形で僑へらいてぬる。然るに、一方には少数こがら
//一九囚
//  とヨウでらウ)ヒ  ヒ  ヒ・>         M .1         w -s   , ,  i   > ,'Jヨウ
//  凶 I 鐸こぼよ黒・励(句11E)・返
//のやうに、八行の形で鋸へら汪てゐる例の存することには注宮子べきてんで。(説は、謁所によつて、キざもヒざも漬ま性てゐる。)然らば、支部9:音の⊇〕はブ即伺こら條件の下に於て、八行の形を古皆済舞訓系唐音の上に現すので そこで、ごアJ字書により、右の各文字の現代北京言及ブ旱ス言言脱帽音。胴べて兄Sざ、
//翫 庶 虚 輝 凶  勁
// 北京
//
//hsninc;luii
//
//hsii
//
//一is i in
//
//日lang
// 寧演
//
//一isiums1 nveiliii
//
//一isiunefmvoug
//温州一isiioa
//一 一一いぶ〃j●  4W●I●j●  』軸j・
//liFUting一isi'ioa
//右の中、北宣言のア三元に於て、{一に於ける行い囲みが{の方にまで影響しごーふ竺矢に近く几言されることは、自然のな旦打きTウ几紋にr Karigren氏は之をーそこおご特高してふる。又、間柱の事情け温則行のしムヨズの場合にも存在すららのと見え、趙元任氏は之を〔ーゴ」ぶ〕f特高してゐる。
// さて、かやうに見て来ミ≒古臨慨酉洞系唐言に八行の形を硯してふる宇け、混例言に於て、寸べてそい・戸谷の血
//f
//後に〔ご類の母音を持つてとろわけであ元そ% Iで、倶に宋家元利頬の浙壮言にも既に同様な事悦び存在し号らのざせば、問題は容易に解決されるわけである。
// ざころで、北京嘉マ証ふ皿州の三方一目が共に〔ご類の母音を合んでゐ昌凶,虚・言・胆の場合にはごぐの〔ど
//か相當に古い時代から既に存在したものであらうどいムこどぱ、想像するに難くない。併し、〔7〕炉ただ温州音にのみ有つて北京音や寧放言に無い鋸丿脱の場合には、温州音の〔ごは比較的近い時代に竟生したものかも知れない、といふ疑も起らう。けれども、脱け字来会何の三等学(提つて拗音にして同時に合口音)である。且、匠に宋東元利頃浙壮地方で行ぱれてゐた謳経の音に於て既炉ぞ社兵二目o発のやうな形Tのつ包もの芒せば、それがヮ字入によつてヒヤウのやうな拗音で模倣される筈ぱ無い。古臨暦葺絹糸唐音の支那原音ぱ、恐らく〔高名〕又は〔ダ這〕に近いものであつ穴ざ想像され芯のであ礼
// 次に問題ざなるるのは、輝の場合であ几然るに、古座聘葺羽帚唐音に反映し包支那原音が、と撮の合口の場合、即ち現代北家君の〔兵苛ご韻に對庶す石場合に、まさしj〔ご韻を持つてゐたざいム事賞ぱ、面白い方法によつて服明される。
// 第一、古座許舞羽糸店賃に於てぱ、無韻三四等の学ぱ、原則としてィ順になつてゐる。
//  諧・宵・預。於。如1去こ短・唐ム防・除・序・居こ釘・皐。涼7虚・釧
//これらが近代官話の初期に於てすべてつ昌韻であつ包ごとは、中原音順二旅武正順の反切や月齢耳目資の荷馬学級の示す所である。その〔こぼ、cerelo込の即音の後では?〕 に侵犯したが、号音・喉音・面頬音・牛石茸に於ては、現代北京音もなほ〔ご韻を保存してゐ犬さて、趙元任氏の「現代具語的研究」に篠ると、温州・寧荻ふい
//風紋の唐音に既決した併合時代の畳韻烈煎
//一九五
//                                             }九六
//興どこ岩壁蘇州その厄現代契百万の大部分も、(少くども牙喉賃の場合)ここに〔二期の顔を現してゐる。それ故、古座済籍洞系店賃のィ頷も、やぱり支那原賃の〔二服を反映するものであつ記といふことぱ、可能なこざである。
// 第二、古臨漕芦刈系附言に於ては、血撮の合口賃(軽賃を除く)も亦原則としてィ順である。・
// イ  ジ  イ淮・訪で位
// ヒ  イ  ジ輝ふfよ=
//吏訃 ●諾や ○庶ィ
// 可  キ  イ  キ  イ シイ父イ)ルイ章・鬼・逡・規よ某・氷・類
//これらぱ、近代官話でぱ〔兵9口頭であるが、淡州・{八つ絹興・上火7蘇州その他現代揚力fの大部分(白話
//言)ぱ、(少;ども牙喉曹の場合)ここに〔7〕類の顔形を飛してゐる。今から百囚十年前、嘉走り鏡夭折は、既に「具申方言、東和ぃ皐、諾和ぃ居、脆匂い亘、緯如i喩、物相二夫子弊ご迢和遥こ云々(十肩章骨折録巻五「弊相近海誼」)ご言つてゐる。前修の魚顔の場合のこごずゎ忍び合せるならば、古座済葺利系唐音のゴ顔も、此の場合支那原香の〔ご顔を反映するものであつこといふことは、可能なござ君忍ぱ作る。
// 第三、かく言つても、一部み人々はなほ、古座潜奇利系唐音の修了輝・陽等ぱ支那原言〔巴〕〔}竺〕〔ざご言の不完全な模倣に過ぎないのでぱないか、君長ふかも知れない。併し、その然らざることは、古座滸奇洞系唐言が、復活一言の合口晋を                                             ,         .
//  回・外・會・内・皿(・嫌・厘)
//の如くウイ(オイ)顔で偉へ、止揖の合口言のイ顔君明瞭に耳別してゐることによっても知ら汪るのである。現代具
//語茶所方言の自活費でも、蟹撮一賞の合口言はすべて〔uei, uei, ue, ni, vai, aij類の顔形であり、〔ご顛の顔形<\. it*-. >    . , . 11 in*- /―, /?≪ t-i. ≪ttm. . i.^ t≫cti rr* ._,-ii./~i.-,o    ,  i /-^ iBr (vi_"7*- <-^   1 .Ax* ju /・    tjy ノ,  .・nxrAi'.rノ.   i ...,.≫_/ Vlif)    /      ~Ltj.  f  o    <J> r\  ,  .f    M/
//を有する正貨の合口言ざぱ居間されてゐ几この用資料のニ欲ば
//決して側然のこざとは贈へられない。捉つて、宋
//吉冗句頃新注地方で行ぱれてゐる皿経の昔に於ても、止隋の合ロ昔は、蟹俵一等の合口昔(〔ど}こ己類の顔形)ざ
//ぱ孤弱された〔ご順であつたものざ考ふべきであ元フ
// 第四、古座府前月系吉言に於てぱ、疑母(頭首ぱ本来〔已)の言は、、或はガ行の形で現れ、或は頭言治夫してア行の形になつてゐる。
//然る
//万r         tl "h  万> it.ン  が  力誕・我・俵・限・願こ月エユ
//に、その一郎がナ行の形で偉へられてゐるこどには、注意ずべきである。
//ネン IIJ- -・>   *ン  ニ   ニ   ニ   ’一   二  二  ネ  ネ  ニウ  ニ言・仰・殼・儀・詣・隅・邁・宣子巍・辱万葉1牛1御
//これは、言ふまでもなく、その支那叫号に於て、本来の頭号〔已が、〔ご〔ぞ〕〔ごと〔‘召〕〔ざ〕〔この如ぎ願へ接接して行く場合、口蓋化されて〔已に使じてゐたこざを示すものである。〔ご〔ご要素の直前に於ける疑母頭
//晋の口蓋化ぱ、近代災方言の顕著な特色の一である。陶余儀(清江省黄崇の人)も、害虫會要(洪武光年自序)に於
//て、宜の字を日本語の「に」の香に充ててゐる。
// 然るに、古座暦際絹糸唐香では、巍までか一一の香になつてゐる。その支那原香に於て、もし止術の合口香が、〔兵召ご類の顔形であつむものざせば、巍の香ぱ索然〔百{乙2この類なるべく、こ江でぱ頭香〔巴炉直ちに日差化される筈が熱い。心術の合口香が〔ご顔であつたればこそ、巍〔ヲ〕の潤香ぱ、魚顔の御〔弓〕等の場合ざ同様に口蓋化されて、9昌即ちー】の香になり得だのである。
// 然らば、古臨滸寿詞糸附言に於肘る輝の支那原香も、口舌しごこの類でぱなくて、索然〔f〕であつだものざ考へられる。
// ざころで、こ〕の庭前の〔一こぼ、賂〔ござ同じロ形を以て脅がされ、結局ぱ熱賛の「ご香である。然るに、
//   風窓の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態                        一丸七
//                                             一丸八
//無言の〔ご音に於ては、前石部の隆坦によって目路印字火線に集中され仁息が、圓く突き出された谷の縁へ吹きつけられることドなるので、勁ぶす詐ば口笛に似包苛々宗谷の間に生じ奘くこの苛ぱ、旧辞の開に生すス示擦に基;七
//のこる黙に於て、ま包喪分にこごに似仁性質を特つてゐる。そこミ昭代の支那人ぱ、ヒル(完)に流浪で流跡を充てヒガシ(東)に寓句・原句を充て、ヒゲ(頻)に原計を充てるなど、日本語のヒ(當時〔吻一〕の言訳を有し仁)の
//質を表すのに、〔百〕〔てI〕の原質を有する漢字を以てするこぞがめつ記。陶宗鎖炉宵史會要に於て「へ」に靴の字を充てたのも、やぱり同じ理出によるものざ考へられ石。(「へ」に充てられた靴の支那原質ぱ、恐らく.〔}儒っ〕に近いものであつだらう。)然らば、鎌倉時代の日本人炉、〔f〕〔百1〕の如き支部首を罷いて、それを母國語のヒ 〔力〕ざ同一肌し記といふことも、やはり向し事傍によるものビして庶明されるわけである。
// もつザも、支那原質の〔f〕〔fl〕炉古臨潜葺洞系唐質に「ヒ」「ヒ_____p  Iの形で反映することは、常に組對規則的に行;ものとは限らない。凶・重で動(勣)・既などは大多数の資料を通じで皆ヒョウ・ヒE・ヒE・ヒョウの形になつてゐるし、輝も大筒ぱヒである炉堕山傍規守にはキとなってぬる。虚け、小賞杯賂傍見でぱ儒ヒの質炉出てゐるけれども、これは費は妙心寺回係の資料の中でさへも稀な例であつて、普通ぱキの質である。虚堂智愚肩師の名も、
//キダウざ言ふのが渋み班になつてゐる。之を仝憩ざしで見れば、古座滸葺羽帚府営に於てぱ、昌行ぱカ行の形で現れ
//るの原則ざし、それが稀に八行の形で現れこのは、式部原音戸沢音の直後に〔ご鎖の要素を會んでゐむ場合に殆ど阻られてゐる、といふこと戸言ひ得るのみである。
// 之を江戸時代・に輸入され鎧言言の場訃ざ比絞す芯に、江戸時代には支那語の婉母は殆どすべて八行の形で借入されてゐる。之に対して、佐倉時代に清人された府営に於てぱ、隠母ぱ原川としてぱカ行の形になつてゐ元
//感頴 虚s キこごe虚@
//ハイ ヒン  フン  ヘ″海こ111で昏よ{
//示
// 応  ポ  アワ  アに  フリ ヒトE ビヤ、’ヒン謁〃火二化二化言mT向ここT興
//ヒノ  コン かン  コ  コ  〃7  こワ  ヽと 一ぶーう 祭心ウ 今ゞ
//勣・昏・朧。筑∵火『化こ化・華・{四∵香・暢 ’・
//(背鰭活現)
//(小泉柿奇計規ヾ
//縁合時代に於て、回読の八行の閃背戸、永仁〔乙には達≒門瞭な谷菅てあったここを顛るべきでよぷ。囚みに、黄薬店賃に於てぱ、支仏語の泉谷酉は /
//ペソ  ペイ ペーウ  ビ  ビン ピ々ーウ プ  ペン  ポ  14 A
//八二{‥・憚。拡て高°*°普・婚・歌才犬』・:::
//のやうに半肩尺八行を以て代表さ汪、支部語の幄聯背け
//叙
//  法こ巡・脱・敬二皿T胱〃方……ミ
//のやうに苛苛フ〃行今以て代表され、雨浙は我慾ご饌闘さおてゐる。穴に討して、古幌洲甘利系唐音でぱ  <        (イ ポウ  ヒ  ビン とヤウ フ  ヘX 44             Ji.s
//  ハ・邸・保・藻. ng.表o $ . m .波r率:FF:    (雷行賞)
// ハ  ハン  ハン  フ  フ  フヽ’ バウ
//法・返・筒・敷二心丁目T方・;………    (幄言言)
//-
//のやうに、支部原費に於け心特言の帽平や親朋せす、雨贈を特に浪費八行い形で恪へてゐ七而して、その竟費ぱ國語い普通の八行費ざ健b無く、むご
//ソンパウ右 クテンヤウ ヂンベウズレギヤみテ、,ヤウ’ヽインゾケリワモテ・こウ  六八ウトブとT.ふウ チリカイ:イィ  う ハ 乙テ-・ t s.カイベンリンジc -v   >.シン  ジ≫,!=・*・≪キウ東方特図天王 南方傍役天王 百方皆目天王 北方多門天王 天界列座 撮法諧天三界寓宗午方至聖 日月雨宮テンペ  テンポ ジテウシンキ-\     ・(・ンペヤコ テシンキンコ プ ジンヽノウ
//天子 南北二斗泉谷 南方火徳泉谷火部聖泉    (花間作水防自)
//に於ける北(宗谷行)・方(総員行)の無言勺不労加工、微行の厄後では半訃音に款言さ
//几でのが例フ高乙兄
// 諜合作代に於けら百石の八行い戸言(主ピして]大口に存しャごは、岫へに句沃マ臍竺谷晋でエつ包。許しこがら、そ性がこは上代の〔乙n号倣か座存してごャド八特へらヤ≒い二河、故こら、感光大川ゲ他行百い口火訪いハざ同   証総の唐音に反映Lだ語音時大の音顔壮烈                       て九九
//                                       二〇〇
//一段やす、特にかこ気づ(在府記)々往してん芯こざにより語頭のムの側首ゲ平安時代初期に於て脱に〔どの妖惑に述してゐたこごを知り得るのみならす、管安価のフデ(`筆)の竟首を墨犬紅炉分厘(鶴林玉露)ざ寫してゐることによ♭、語頭のフの頭首も亦儒貪初期には既に〔吻〕になつてゐ記こざを知り得るからであぶ。更に、古臨府際澗来店首が凶・犀・虚・言・胆・既等の隠母の字の首を「ヒ」「ヒ――Jの形で催へてゐる市費を息ふならば、當時ヒが,未だCPOの状態に在つとものどは到庭考へられない。即ち、脱に〔力〕の状態に建してゐ君ものざ考へるより外は無い。mして、閉母費やo〔ごつこの前に於てすら〔t〕が脱に〔吻〕に便化してゐたものざずれば、一暦開いこ伝言ここ〔っ〕の前に於てぱなほ更のこざで冷る。(もつドb、撥費や促首の直後など、特定の位瀧に於て當時〔已炉衰首されたといふことぱ 有り得べきこピであつて、それまでを否定するのではない。)
// 最後に一言しておきたいのは、字谷足の桓首のこざである。古代支洋語ぱ、順延の鼻首だして号ごうと〔この三種を双眸してゐた。古臨許際釧茶店背け、その〔ョ〕号〕に租常す石所には、双別無く常にEを現して心頓。併し、古代支那語の〔ご頭足に相當する所には、或ぱこぞ現し、或はゥ白現してゐる。今、試みに賞詞を小鼓旅路清規に求狛てみると
//           ヅン  7、″ ヅ、‘ ウン yン  <.l      ,<ン ・・   * *- A         * A          INン .ツン ツン クン ヅン  ペン  ム(迎接一等)働・徳∴皿∵鴻こ?蒙、皿T迎〃塵・洪・貢・東こ萱・エ・樟‘坦・夢
//           フ/ ’、ン シユン 刄ン フノ ジブ(通衛二三間作) 証・崇・中・龍・肌・重  ギヤゥ イウ  こう  ヂゥ キゥ  シう
//  『旱・用・能∵完・其・紆
//(江聳) 穀で降
//豊ビ
//  `、ン  ルン・桧一隆
//ユこ プ、,(ホら)キユ*(キゥ)よン(ノウ・\i!)   K   .A£(\ごキウ 午ウユウ{イゥ>   i> Jt-M A)'---^ )容’宰・伊 ・ 泉・誦・程・恭・宮〃融・ 凶・
//        ジヤウ カゥ キヤツ リヤゥママゥ}ワゥ  カゥ チヤゥ誤り ヂヤゥ   '<£(マシ・そり)C *・££・>サウ(*{-)シヤウ シヤゥ ヤウ<VWi)ヤウ(ョツ)ンヤゥ ジヤゥ レヴ ヒatf(宕聳)詳・剛〃向∵ 役・見よ手長おご民19・望 ・ 方・罷・租・章・王・養・掌・丈・溺・眠・
//}〃→-〃
//- 一一一一ヽ一一
//   タゥ シヤウ ジヤウ(ジョウ)々ワウ サゥ ラウ ヤウ ダウ シヤゥ{ンョう)ジヤウ バウ  ョウ シヤウ ヤ々{ョゥ)クワウ ジヤウ ザウ ダゥ シヤゥ ヤウ ジヤゥヂヤウCiKゥ)   常・昌・常 ・ 光・洽・翔・陽・堂・賞 ・ 象・坊・旺・聘・往・廣・礦・蔵・宕・怠・揚・杖・場 ・  シヤウ(シmf.)   B-ヤウ カウ ダウ キヤ・Mキヤン)ニヤン                                      .
//   障 ・良二肌・蕩こ百 ・ 仰
//
//      キン 4 -> ミ、‘ ヽヽ乙 メン  一一ン ジ・・>       ・R-'i ジン  了.‘ キノ ジン 刀ン nン  てi 'a -1          il -1          ,A A キン ヽンン サw チン ジよチふ)アン(鏡損) 経・頂・嗣。聖・永・寧・威・頁・評で行二で情・惑で會・正・千・鸚・星・興・井・生・定・浄・衡・
//   ミン シン ワン ジン シン キン ジン ミン シン キン ジン キン(キヤウ)シン(ヽンイ)
//   命・昇・宏・盛・請・幄・城・名・性・傾・程・境・府
//
//      ジン ズン テン  レン テン ジン  ビン テン シン ジン ジン ネン ワン  ペン シA(.\ヤウ)ゴウ  コウ(侍衛).勝・増・燈・栃・登・釆・塵・等・栴・悟・揃・能・弘・鮒・誼・恒・亘
//即ち、通貨一節及び説こ甘雨貨は原則どしてンφ雖し、江・官用貨ぱ原則としてゥを現し、通貨二三囚徐に於てぱンVJゥw殆ど相學してそここれについて忍び合せられるのぱ、現代化州力石の状態である。ここでは、本来の〔ョ〕Tご系統の頭尾は、山・獄南征に於てぱその直前の母音を鼻音化して自らぱ消失して居か、膝・深雨貨に於てぱ〔ゴ〕の形で保存戸nてゐ元之に対して、本来の〔三系統の頭尾ぱ、〔呂〕〔岳〕〔さ〕〔ヨ〕の’やうに、直前の母音の性質に庶して、或は〔昌の形で或は〔ゴ〕の形で、保存さ作てゐる。その結果ビして、本来の〔三系統の頭尾ぱ、大破に於て、通・江・宕隋徐に於てぱ〔己の形で保存され、鎖7曾用徐に於てぱつごの形で保存されてゐることとなってゐる。宋本元初頃、浪江地方に俯け芯説経の音に、もし伺知之に類似した事情炉存在したものとすれば、古座流耳訓示府音に現れたゥざンざの使ひ分け入都合よ;言明されるわけである、即ち、古臨流曹訓示唐音の頭尾ゥぱ、そo支那原音の頭尾〔三白尺映し、古俗流奇利系唐音の頭尾ンぱ、その支那寡言の頭足〔コ〕(或ぱ〔七言)を反映してゐ″Jyゎのとして説明されここぎざな七もつども、適役の場合の事情など、詳しいことは未だ分らないけれども。
// 古座片耳洞系声音に於け芯頭足K- £N VJンざの使ひ分けを、右の服定によって説明せふか記めには、鎌倉時代に於け    風俗の唐音に反訣した綜會時代の音韻歌惑                       二〇一
//                                        二〇二
//る図居の水苔の土蔵邱、〔ごよりぱ寧ろ号〕目方に近シらつで高心祀こざ脂前提ざしなけケげならない。然るに、ここに一つ、その可能性を多ヤらしめ示甫背が存守予る。即ち、洋紅の唐音に於では、字音尾のンの慨後にマ〃ワ・ヤ三行の苔炉米不為今には、諭西岸に於けミこ回禄こ巡見を生するのである炉、その酉、ンの後に米乙ア・ワーヤ三行音は、そのいがヤ米収内・舌カ∵冊内いづ組の系統に屡すろものでA石・ヤ聊問は小・、すべて無言別にナ行苔どこる。(更に詳しく言へば、マ行音ーワ行背けナ行苔に朧じ、ヤ母苔ぱで母音に贈する。)左に花園校本「評言戦法」の中から若干の例を引かう。
//       キユンイヤウ  ンユサンイン(喉内) 俳優  畜生形
//フネンイカT不旅烏害
//      ンテンインガ    -,   Ik >> S f- i1 -% *-イキンァジ″   リンうイ(舌内) 隋天言鵬  図天骨膳  外廷悪人  輪廻      ゴキン二八キウ    ハ ブノハシンァンブ サグツデ  心ンァダウスイ(鍔内) 我争已具  呉菩提心行背任道  三悪道
//リノリヽ.・
// 愉乙這
//この言の延暦は、支部かに存在するわけではなで、熱論に水の寺院で帽頌ひがふ開に生じて来ドらので高・る。その状態は、上に来るンの昌ぼの如何や閃はず、下に来るア・ワ・ヤ行の言をナ行でこ行の言に燧小ふ応仁ど、すべて談西岸の場合ざ同一でかつて、作間珍しいどころは存在しない。併し、そ作にしてもJ*諧西の建言なござ共に、かつごEの言順治的大蔵が舌古習〔ご〕でふつに時代の存在するこどや暗示す’・・ものごして、注意すべき市費ど言はなければならない。
// 以・上、古燃寄付川添言言に『ケ詣心打。八寸ド上L坤心寺沢D一指文頻にフ、てテケツ乙うよじゲ、事情ぱ檀澱の資料についても大差ぱ特いやうであ石。岬宗諧寺院に於ける胤標のぼ言行組織的に研突すてことは極めて大切なことで、その竟に照してこご個大の唐言語の性質も始めて開かになるのである。例へば、大言のジ(言)などは、事情を
//φtW〃j
//〃j心p〃〃〃¥ハ心
//知らない人にざつては全く不可解な音で、甚だしい韓洗のやうに思ふであらう炉、「古臨聘際澗系唐音に於て、(一)知・徹・攬母はサ行・ザ行の形どなり、(二)魚順三同体ぱイ列音ざなる。」といふ原用心知る者にざつてぱ、これ全く「音韻法則」的な形であつて、理論的に演縁し得石ものでふる。又、靖客侍者の請(現代北京音ミヨn)ぱシンざ撥ね芯のに、湯葉侍者の湯(現代北京音ご兵)ぱ何故タンド撥ねないのか。唐音どし言へば何時でも撥ねるもののやうに心得てゐる人々にざつてぱ、全く解しかねる所であらうが、「古臨暦育澗系唐音に於て、榎撮ぱ撥ね、宕療ぱ撥ねない。」といふ原則々佃芯我々にざつてぱ、日常茶飯事に腸する。和貴をブシャンざ撥ねないのぱ、貴(現代北京音かご石)が宕撮の平だからであり、行脚をアンギ‘j.撥ねるのぱ、行(現代北京音}乳召)が梗振の平打からである。
//又、華僑(ヤウカン)の羊(現代北京苔ぶ兵)ぱ宕撮の字、僑(現代北京苔石兵)ぱ梗揃の字である。
// 但し、これらの法則の適用旋回ぱ、無論、鎌倉時代に輸入さ汁こ古臨府賛詞系唐晋に限られてゐる。室町以後、殊
//に江戸時代に輸入された新しい唐晋には遮吊されない。
// 私ぱ、本稿シ端緒として、一昔廣;一贅詳しい研究を此の方面に進めたい所存である。ついてぱ、何なりども有益な資料命御存しの方ぱ、もし御教示下さるならば幸の至である。
// 私か唐言の研究に志して以来、橋本進吉光全敗に中山久四郎先生からぱ常常懇ろな御歌をいたゼいてゐる。又、駒洋犬早朝書信の蔵宣命信管するこどか・得仁のぱ、大久保堅瑞先生の御厚意にょるものである。此の稿を柊ふるに常り、隋先生に厚く御聘申し上げる次第である。
//             詮
//  〔回 丙刀は、大正新修大蔵経には百丑と改めてゐろが、丙丑といふ干支は胤るべか≪.: Vjる亀のであるから、いづれ何かの具に相    佩経の唐音に反映した鎌倉時代の音韻歌煎                        二〇三
//                                                二〇田
//
//  違無い。楓隠自身が間違へたのか屯知れない。もし乙丑ならば永原八年、丙寅ならば永禄元年である。
// ″                           φ                  ・
//(ニ) 楓膳の傅は明かでない。{瑞石山永源寺宗派圖(大正十囚年刊)にも、ただ未詳師承者追考(自率氷元年甲戌至池原十六年  発未)の申に天倫寺楓議と記Lてゐるのみである。
//(三) 明雁版は、稔井孝氏の順せられるものを拝借することが出来た。深く感謝する衣架である。
//(.田) 附録を削除Lたので、それに卵庶するやうに目録を亀書き改めたのである、。なほ、明暦股では、附録の最後に指回向清規式、
//  巻架五経と記L、その後に明雁三年梓行の刊記がある。然るに、女松堂阪では、その指図内海飛沢巻架五経の文字をも一緒に  削つてLまつたので、巻第一乃至巻第四の場合に比べると、形式が不倶になつてゐる。何れの黙から見ても、明雁股の方が原  形であつて、女松堂股はその一部を雙改Lたものであること明かである。
//(五) 謡曲朝長は、世阿弧の作として大水田年吉田兼持在判の能本作者註文の申にも陛に見える古い曲である。その中に引かれた  銀箭懺法の文は、現今の観世流に採れば
//
//   答弁ヨ黙楊枝添水唯願薩埋
//  となつてゐる。〔喜多流や金剛流では答今已具となつてゐるが、これは観世流等の方が正しい。)今、裁決の本文及び唐音を花園  校本に裸つて罰けば、                                      ,
//   T!  O Tキ;v>rzシシンス4イぞン々イヒアイAンセシ≪・ T1キン升’’‐ケンTt--eシシンシイV*-.Nクワン4’で4レンセン・&         nキンサン≪*・イヤリシジンKイV *・ン*.   j. KTレンセシウ
//   我今已具楊枝添水惟願大悲哀憐撮受  我弁再献楊枝添水惟願銀箭哀憐槙受  我弁三黙楊枝添水惟願薗埋表憐構受
//  秋葉寺蔵版本に採れば、唐箭が少し逍ふ。
//   ゴキスイキ-v*-*シジスシイグH-<*イilアイレスセンt> nキ又サイケス・<・・*-*・シS≫K NVTグHス々ワスイスNイレスtシウ  ゴキスサスfヤスイヤウシジスシイイグエスサト了イレス・Vシ≪-
//   我弁巳具楊枝添水惟願大悲哀憐揖受  我今再勣楊枝添水惟願銀箭哀憐櫛受 我今三黙楊枝添水惟願薩緩哀憐揖受
//  面白いことには、教法原文の我今は、謡本では、江戸時代に於ても多くは答今となつてゐる。これは、言ふまでもなく、我弁  を心キソと唐箭漬みにする所から、誤つて答今の文字を用ゐるに至つたらのである。兎に角、唐音のお絞が謡曲の中に引かれ  てゐるのは珍しい例で、薗戸や頌詞に出て来る般若理趣鋸の漢音と共に、注意せらるべきものである。
//(六) 近世初期の官本。表紙に[懺宗法 南嶺和貴真跡」と記しf終に近人の筆を以て左の{うに記入Lてある。
//
//   南嶺和貴略博  曹洞宗
//II!
//ざWf=W心-〃4〃〃L● ̄”
//    薩摩損昌寺暉鴬なり、慶蜂字は密嶺姓は源氏大寺の族なり、大鵬仝常に参して分座となり慶長十二単薩摩損昌寺の虐席す    るに常り師州守の諸に依りて之に住す、元和沁年正月十同日寂す、法嗣三了鵬建の一人あぢ
//                                              日本酒上房燈録
//c七) 重残飯音戮家法引
//   洛師剖生林氏嘗刊二大悲戮一百行二千世一肯矣菌梓渥蝕而音律或舛箆有レ志二千修持一考僚焉耳介託レ金請二再侵一命乃貌二平蕪泉前   他校公和肯】溜補之翻罰塊浦伏願戮雪廣修永鮒二障霧之擾擾一聞薫普曼同登二薩雲之巍巍一
//   時享保十五歳瞎庚戌四月俸生日
//    前越州壽毫山鴬馬革和密書
//(八) 敬 罰
//   圓通轍摩塵二部流行伏願皇凰永扇
//    俸日槽輝見考聞考同鐙圓活考
//   京洛 挑花街書林 林氏和樹謹書
//  此の本には、勿論享保十五単序や明和八年敗は附いてゐない。
//(九) 享保服及び賓暦服は、私は未だ見てゐない。明和服は、ただ巻首の断片を手に入れたのみ。今ここに記す所は、明和八単政  及び明和服・寛改版巻貝の記載に採つたのである。
//(

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