#author("2020-11-07T00:00:29+09:00","default:kuzan","kuzan")
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006200338

>一 はじめに
二 [[五十嵐篤好]]
三 『閑居吟草』について

[[管宗次]]「[[富士谷御杖]]と五十嵐篤好」
(武庫川女子大学文学部国文学科)
     
//    一 はじめに
// 近世後期、上方を中心として北陸、九州にまで学閥を大きく広げた国学の一派に北辺門がある。北辺門は祖を富士谷成章とし、和歌を詠むことのみに専心するいわゆる「和歌者流」とは異なり、和歌を詠むことを道と心得、さらにその道具として言語を究めることに重きを置き、文法研究と和歌の実作創作とは両輪の関係とみなしていた。
// よって、北辺門では、文法研究を、和歌を詠むための単なる知識習得の一つとは考えず、歌会を運営する熱心さで文法研究を歌会と共に営んでいた。北辺門では文法を四品詞に分類したため、その文法研究を四具のきわめなどと称していた。
// これまで、拙稿では、この北辺の人々の研究と歌会の運営、幕末期から明治期にかけての動向についてを、次の論文にまとめてきた。
//○「北辺門人と審神舎中月並歌会」(『甲子論集 林巨樹先生華甲記念 国語国文論集』(昭和六十年四月二十六日刊))
//○「明治三十年の北辺門月並歌会-付〈翻刻〉『明治三十年須賀室月次会』」
// (「武庫川国文」四十六号、平成七年十二月一日刊)
//○「『赤松大人 山城国名所歌枕』明治期北辺門著述について・付(翻刻)」
// (「武庫川国文」四十七号、平成八年三月二十一日刊)
//○「福田祐満について」(「武庫川女子大学紀要」人文・社会科学編、第四
// 四巻、一九九六年〉
//○「福田美楯について」(「武庫川女子大学紀要」人文・社会科学編、第四
// 六巻、一九九八年〉
//○「北辺門の和歌一枚刷」(「混沌」第十九号、混沌会、平成七年十二月十
// 六日刊、中尾松泉堂)
// 本稿は、これらと同じく、北辺門の流れと学問的志向をさぐるべくものするもので、特に新出本である『閑居吟草』三冊を中心としながら述べていくこととする。同書は、反町弘文荘が扱ったもので、弘文荘のあつらえた帙には、森銑三氏の筆で
//  五十嵐篤好自筆詠草 富士谷御杖自筆添削 三冊
//と実に好もしい正階にて認められている。売品となるかぎりは、内容を容易に知らしむる書名を冠するのは当然のことであろう。
// 五十嵐篤好は自筆にて、三冊の内、第一冊目の表紙に題簽を貼付し「閑居吟草」としているので、以下、本稿では「閑居吟草」と呼ぶこととする。
//
//    二 五十嵐篤好
// 志田延義「富士谷御杖小伝」(三宅清編『富士谷御杖集』第三巻、国民精神分化研究所、昭和十三年三月二十五日刊)によると、
//>>
//御杖の学統を承けた人としては、榎並隆漣・並河基広・福田美楯を先づ挙ぐべきである。隆漣に関しては『富士谷御杖大人家集』等に交渉の様子が見え、『神楽催馬楽燈』にはその説をわが友として援用してゐる。福田美楯は『名人忌辰録』等には御杖と父子の関係にあるやうに記してゐるが、誤であつて、『装抄』に「門人福田美楯筆受」とあり、美楯の門人赤松祐以を承けられた小西大東氏は、御杖の菅室を上中下に分ち、隆漣、基広、美楯が夫々に之を継いだのであつて、美楯の家は塗師屋であつたと云はれた。御杖との交渉・入門は比較的遅く生じたやうだが、御杖晩年の不遇に庇護者として力を致した人に、越中の五十嵐篤好がある。
//<<
//とされ、また御杖没後の北辺門の中心的存在となった福田美楯と五十嵐篤好は、反目状態にあった。それは、
//>>
// 篤好は「苟も師翁の志に違ふ者は何人と雖も仮借する所はなかつた。同門福田美楯などを攻撃したのは、己が説を御杖大人の説の如く装ひたる態度に慊なかつたからで、又安政二年十月亡師子息の名を以て、追年懐旧の題詠をあまねく募つたのを聞き、大に慨を発し、直に書を富士谷家へ送りて題詠の亡師の志にあらざる事をのべ、かつ当時の学界を痛論して、迷はず父大人の学を紹ぐべぎを勧めた。」此の者は「富士谷大人三十三回忌に今のあるじに奉りし文」であらう。
//<<
//とされている。
//五十嵐篤好が富士谷御杖に入門したのは、御杖のまさに晩年の頃で、文政五年八月七日、御杖五十五歳の時であった。御杖は五十六歳で(文政六年十二月十六日没)没している。御杖はこの頃、不遇を極めており、
//>>
//米価も次第に騰り気味の時分に無祿の身となつた御杖の生活は、随分節倹してもなほ逼迫を告げた上に、翌文政五年六月以前からであらう病に臥し、九月には「今以半身麻痺言語不通困り入り候、」と云ひ、医者門人の勧めで木や町西石垣下ルに出養生し、六年に成つて一時小康を得たのであらうが、復不随再発しその上頭瘡まで発した。篤好への書信には痛ましい言葉で経済的援助を求めてゐる。それから一度快方に赴くと見えて此の文政六年十二月十六日遂に易簣した。年五十六。
//<<
//といった有様(『富士谷御杖集』第一巻、昭和十一年二月二十入日刊、一一頁)であった。
// 平井武夫「国学者五十嵐篤好の生涯と其の著作」(「国学院雑誌」第二十
//四巻第十号)や多田淳典著『異色の国学者富士谷御杖の生涯』(平成二年
//十二月二十五日刊、思文閣出版)によると、
//  御杖はこのようにして、言わば再起不能の死病に取り憑かれ、既述
//  のように、妾腹の子女歌は既に浪華の神田家へ養女に出したが、側
//  室と末子元広との二人を抱え、自らは病床に呻吟するという悲惨な
//  境涯に陥るのである。唯このような時期に、はからずも篤好のよう
//  な富も学識もある人物と師弟の縁をもち得るに至ったという事は、
//  悲惨な晩年に於ける御杖にとってこの上ない幸せであり、また救い
//  でもあったと言わねぽならぬ。茲に御杖としては唯一途に篤好の好
//  意に縋るほかなかったのも亦無理からぬ事であったであろう。篤好
//  に対する御杖の書簡に依ると、そうした依頼の言葉は文政六年に
//  入って一層切実さを増してくるのである。例えぽ同年二月二十四日
//  のものでは、
//   もし当春御祝金など不被下候哉是ハ相達不申候左様思召可被下候
//     恐々
//   などと春の祝金の催促までしたり、或いは篤好に頼まれた自己の
//  著述の書写料の前払いの請求をしたりしている。即ち同年五月十日
//  の書簡では、
//   いせ物語いまた書終不申候とさの日記うつさせ可申候とさの日記
//   八冊凡一冊筆工紙料共十四五匁ト被存候両宮弁も二十匁斗もかゝ
//   り可申哉両様ハうつさせ上可申候当地は筆工説殊外金子を急候間
//   先金弐両弐部斗為御登可被下候
//  と書を送っている。これが九月二十八日のものとなると一層生々し
//  く、
//   (前文省略)小子何分暮し方随分節倹を用候へとも六節金五両宛入
//   申候右二付近比申上兼候へとも三月前五月前七月前十月前十二月
//   六節金四両つゝ御取かへ被下ましく哉勿論いつ迄もとハ不申上候
//   小子も快気候ハゝ尾州辺遊歴可仕候はゝ取集返上無相違可仕候
//   (中略)遊歴候はゝ無相違返上之儀当地社中連印いたさせ可申候
//   呉々此段深く御憐察被下候様奉頼候右御頼申上度如斯御座候云々
//  等と、自己の生活状況をさらけ出し、且つは返済の確約に関して
//  は、在京門人達に依る連帯保証の事まで持ち出して、金銭の扶助を
//  乞うている。しかし篤好はその都度御杖の願いを聴き容れていたの
//  であって、平井武夫氏に依れぽ、加賀百万石領内に於ても第二流と
//  は下らない豪農であった篤好とはいえ、その志の厚さには誠に頭の
//  下がるものがあると言わねばならぬ。(『異色の国学者 富士谷御杖
//  の生涯』一七一〜一七二頁)
//といったことであるから、富士谷御杖と五十嵐篤好との出会いの時期は
//誠に短いものであったが、その師弟の結びつきはまた誠に深いもので
//あった。その入門の折の納金の料もわかっており、
//  五十嵐篤好が入門の手続を尋ねた返事(文政五年六月二十四日)には、
//   入門弐百疋、扇子料百疋。
//   右の通定式に御座候へども、これにかゝはらず身分次第に御座候。
//(『富士谷御杖集』第一巻、十一頁)「これにかゝはらず身分次第に御座候」
//に、御杖の篤好の経済力への大きな期待がはかられる。
// 最も、簡略なもので、大川茂雄・南茂樹編『国学者伝記集成』から、五
//十嵐篤好の伝を引用しておくこととする(続編、補正五八二頁)。〔没年
//には諸説あるが〕
//  五十嵐篤好
//  〔生〕寛政五年=一月
//  〔歿〕文久元年正月二四日{年}六九
//  〔住所〕〔生地〕越中礪波郡内島村
//  〔姓名〕〔名〕篤好、一名厚義、〔字〕幼字小五郎、後小豊次、後父の名
//  を継ぎて孫作と改む。〔号〕臥牛斎、香香瀬、鳩夢、雉岡、鹿鳴花園
//  〔学統〕〔経歴〕文化八年十村に任ぜられ、文政二年事によりて能登島
//  に流さる。その謫居中、伊夜比曄神社の神職船木連老を訪ひ、歌書
//  を繙きしが、「我身いま三十路もちかの塩がまに煙ぽかりもたつこ
//  とのなき」といへる契沖の詠を見て大に感奮し、赦免の後、歌を本
//  居大平に学び、又贄を富士谷御杖に執りて国学を究む、文政十二年
//  近江の望月幸智また来りて言霊の奥義を伝へき。安政五年豊後の千
//  佳弘太夫越中に入るや、その農事に精しきを以て、篤好は留めて彼
//  が説を聞きしが、事藩庁の知る所となり、流浪人を宿泊せしめたる
//  故を以て、閉門を命ぜらるゝこと一年に及べり。篤好晩年多く金沢
//  に住す。
//  〔著書〕雉岡随筆、同続編、歌学初訓、歌学次訓、歌学三訓、富士谷
//  御杖歌文集、湯津爪櫛、伊勢物語披雲、天朝墨談、言霊旅暁、名言
//  結本末、散書百首式紙形、養老和歌集、無目籠、神典秘解等あり、
//  その他農政等に関するもの亦多し。
//これによって、概略は知られるのであるが、能登への配流は、篤好の人
//格の形成に大きく関った事件のようで、本稿で取りあげる『閑居吟草』の
//なかにも、それについて触れられた詞書もある。晩年の不遇をかこつ御
//杖への支援は、富裕な農家の環境から生まれた性格であり、師の御杖へ
//の学問的尊崇によってのものであろうが、自らの辛労の体験が重ねられ
//たことは容易に想像されよう。また、好学の人であるが、高踏な趣味人
//の余業といったよりも、右にあがる篤好の著述をみても、純粋な学術研
//究書が多く、『国書総目録』(岩波書店)をみると、『数学摘要録』、『関流
//算法指南伝』、『新器測量法』(安政三年成立)、『筆算付追加』(文化九年成
//立)などの算学の著述や『領絵図仕様』(享和二年成立)、『内検地方』(享和
//二年成立)、『立毛見分心得之事』(天保五年成立)、『高免考・夫銀考・着
//米吉初銀考』など庄屋(村役人)としての行政能力を示す著述や、『苗代名
//義考』(天保七年成立)といった篤農家らしい著述もあって、それらの幾
//つかの指向が篤好の全人格のなかで一つとなってかたちを結んでいたか
//のようである。
//     
//    三 『閑居吟草』について
//    (
// 先述の如く、五十嵐篤好と富士谷御杖との交流は短く、師弟の礼を
//とってからはわずか二年であったことになる。本稿で取りあげる『閑居
//吟草』(弘文荘の売品としてつけられた帙の題簽名『五十嵐篤好自筆詠草
// 富士谷御杖自筆添削三冊』)は、越中から京の御杖の許に.送られて、御
//杖の添削を受けたあと、再び篤好の手許に返送されたものである。
// これによって、晩年の御杖の学問と越中における北辺門の五十嵐篤好
//の学風についての一斑を窺うものとしたい。
// 『閑居吟草』という題は、後になって、篤好自らが名付けたもののよう
//である。また第一冊目の表紙に打付書にて、
//  富士谷御杖大人加筆八冊之内
//と篤好の自筆で認められている。現存するのは、その八冊の内、=一三
//の三冊のみで、他の五冊は、『国書総目録』をみても、書名に該当するも
//のが見出せない。
// また表紙にコ  詠草」とあって、各冊十丁〜十四丁のもので、五十嵐
//篤好の詠草に御杖が添削を施したものであるが、一と三の冊には、和歌
//の後に
//  おのれ篤好かかうもやとおもひえたる事の定わふる事ども
//として、歌語や物語(古典作品)についての考証を述べて、これに批評を
//乞うている。これが、いかにも御杖における題詠という形式にのみ汲々
//とすることを排し、本来の和歌に立ち返り、また言語と精神と和歌との
//昇華A旦によってのみ成される世界への希求が正しく篤好には学統とし
//て伝えられたかとの感が垣間見られる。
// そのなかでも、特に注目すべき考証の一条をあげる。御杖の評は()
//のなか記す。
//  一伊勢物語に手を折てあひみし事をかそふれは十といひつゝ四つは
//  へにけりといへる歌の十といひつゝ四つといへるを四十の事也又十
//  四の事なりとその説まちノ\なれは真淵のうしも四十といふ説はよ
//  ろしからんといひおき給へとそのもとの説なし
//  おのれおもふに是は四十の事なれどたゝに四十の事をいはんにかく
//  いふへからず手を折てかそへる時の詞にて=一三四五と次第に手を
//    トヲ
//  折て十といひては又=一三四五と次第に手を折十といひてはもどり
//  する事の四ツになりたるといふ事なるへし
//  つゝといふてにをはは 見つゝはミイノ\聞つゝはキゝノ\といふ
//  ことくこれも十といひノ\する事か四ツになりたるといふならんさ
//  れは四十の事をうちまかせてはいはじ
//   (仰の如候 四十の事には存候 十四にてはつゝの用なく候)
// 大津有一著『増訂版伊勢物語古注釈の研究』(昭和六十一年二月二十八
//日刊、八木書店)には、富士谷御杖の伊勢物語の研究注釈書である『伊勢
//物語燈』と五十嵐篤好著の『伊勢物語披雲』があげられて、その解題があ
//げられている。先にあげた『異色の国学者 富士谷御杖の生涯』のなかで
//は、この両書について触れられて
//  今一点、成元期の述作として注目されるものに、先にも触れた『伊
//  勢物語燈』がある。もっともその実物の所在は今日不明であるが、
//  幸い御杖晩年の門人、越中在住の五十嵐篤好がその著『伊勢物語披
//  雲』の中に、如何なる経路でか入手していた、明らかにこの時期に
//  書かれた『伊勢物語燈』の第一段から第五段までの注解を、本文の一
//  節毎に「燈に日」として克明に書き込んでいて、これに依り同書の概
//  要をぽほぼ窺い知る事が出来る。(一一〇頁)
//とされている。また、この御杖の伊勢物語の注釈書で再撰本にあたるも
//のが東儀正氏蔵本で、
//  この書も初段から第五段までの注解に止まり、しかも内容面でも多
//  分に前者に相通ずるものがあり、これと一連の繋がりをもつ著作で
//  ある事が考えられる。唯この方は文旨も簡潔明瞭で、極めて洗練さ
//  れた叙述となっていると共に、契沖説に代わって専ら真淵の『伊勢
//  物語古意』の説を多く参考として取り入れている等、比較して見る
//  上では特に注意を引く点である。尚いわゆる正本の方には、「披雲」
//  引用本では名のみで、篤好をして「此大旨の草稿いかゝなりけむ…
//  をしむへき事也」(『新編富士谷御杖全集』第三巻一六頁)と嘆かしめ
//  ている「大旨」が書き添えられていて、書名のいわれ、作者の事、更
//  に物語の書きざまについて述べ、終りに所詮この物語は総て韜晦的
//  手法を以て書かれているのであって、史実との齟齬などから由なき
//  作り事と思い惑わされるような事なく、倒語の妙用をば味わい知る
//  のが肝要であると結んでいる。即ちこのような考えは、御杖の後年
//  に於ける古歌或は古典の類の注・解釈上の基調として共通するもの
//  であり、しかもそれが既述したように、早くは「披雲」に引用されて
//  いる『伊勢物語燈』の中にも見受けられ、言わばそれらの源流を為し
//  ているとも見られるという点に於て、此の篤好の言う「富士谷大人
//  成元といひし時書れし伊勢物語燈といふものゝ草稿」はそれなりに
//  大きな意義をもつものと申す事が出来るのである。
//という。先にあげた引用文中の篤好宛の御杖の書簡に、「いせ物語いまた書終不申候」とあるのは、おそらく御杖の『伊勢物語燈』にあたるものであろうし、書簡に続けて「とさの日記うつさせ申候とさの日記八冊凡一冊」とあるのは『土佐日記燈』かと考えられるが、先の篤好の『閑居吟草』の伊勢物語の「十といひつゝ四つはへにけり」の考証に次にあがるのが土佐日記での考証であることをみると『閑居吟草』の第一冊は文政六年の五月十日以降か、その前後に、御杖の許に送られたものということになろう。次に、土佐日記についての篤好の考証をあげる
//  一土佐日記のうち口あみももろもちにといへるを口網は口細奥細と
//  いふものありといひ又くちは魚の名也 その魚をとる網をくち網と
//  いふなと諸家の注あれとやすからすおのれおもふに口網はたゝ口と
//  いふ事にもろもちといはん料に所からなる網をそへてふみのあやを
//  なすなるへし今の俗言に口車に乗せるなといふ口車のたくひならん
//  かし
//   (小子は朽網の義かと存候 勿論あのくたりはわさと戯にかける
//   もの也 此記このたくひ多し 小子注解いたし申し去年金府にか
//   し置申候)
//『土佐日記燈』は、この折は御杖の手許になかったことがわかる。
// 五十嵐篤好のことは平井武夫「国学者五十嵐篤好の生涯と其の著作」によるところが大きいが、御杖自筆の文政五年詠藻の表紙裏に、この年の入門者の氏名等が記されたうちの一行に
//  同年八月七日納贄 越中礪波郡五十嵐余右衛門篤好
//とあるので、その後でなけれぽ、『閑居吟草』は成立し得ないわけであるが、文政五年六年頃の御杖の有様もよく窺えるものといえよう。次に『閑居吟草』の第一冊から、表紙裏に書かれた御杖の総評をあげる。
//   古き世ふり近き世ふり
//   口よりいつるにまかせ
//   たれはうちまじれり
//    初はすへて口よりいつるまに
//    いふものにあらす言書せぬ国
//    言霊のさきはふ国なと古き
//    をしへありよく思をさためて
//    後は口にまかせるやうにも
//    みゆる也後の世人これを
//    みあやまてり
//これは、富士谷御杖の歌論の中心であり、『北辺髄脳』などで繰りかえして述べていることで、遠隔地の門人にもこうした短かな表現してことあるごとに自らの歌論を示していたことがわかる。
// いずれにしろ、地方門人が在京の師に和歌の添削を乞うのは珍しくはない。しかし、本居宣長が地方に多くの門人を持ち、一度も相見えることもなく、書簡往来をもって門人たちが学問追究を極めたということはよく知られているが、北辺門にも、それがあったということは注目してよいことかと思われる。しかも、それが北辺門にとって皮肉なことは学派の中心であった御杖の最晩年のことであり、最も御杖の目ざすところの学問を正しく理解できたその門人(五十嵐篤好)は在京の他の門人とは反発しあって、北辺門の後継者とはみなされなかったことである。なぜならば、在京の北辺門の中心となった福田美楯こそ、華やかな歌会と社中の運営に熱心な人物であったからで、それは五十嵐篤好には許せぬことであった。
// 先に拙稿「福田美楯について」のなかで紹介したが、美楯は先師の富士谷御杖も、学祖の富士谷成章も出すことのなかった「故北辺家遺伝」と称する四具伝授の伝授書を蓑内為美(幸次郎)に天保十五年十一月に出しているが、これは美楯が門人の心を自らの社中につなぐためにかなり数を出したようで、大谷女子大学国文学科編『富士谷成章』(昭和五十九年九月二十九日刊、大谷女子大学発行)に「32故北辺家遺伝」として載せられているものは、「福田美楯が弘化三年一八四六大堀宇兵衛あてに書いた一巻。」とあるが、架蔵の「蓑内幸次郎」宛とほぼ同内容で(やや「蓑内幸次郎」宛の方が省略されている)、類似のものがあったことと思われる。
// これなど、篤好には正に許せぬことの最たるものであったろう。こうして、北辺門は分裂と衰徴をむかえていくのであった。
// 本稿末尾に『閑居吟草』より、五十嵐篤好の思いの込められた和歌をあげておくこととする。
//   友たちなりけるものひとゝせかりそめのやうにて国をいてけるか
//   ゆくへしれすなりける此頃反古の中にてその人の文みいてゝ
//  立わかれゆくへもしれぬ友鳥のふみとめし跡みるがかなしさ
//   ひとゝせ能登の島山に流され住ける頃おもひつゝけける事どもの
//   うちきさらきのはしめ東の海へたにゆきてみれはわか越ちの山と
//   てはたゝ立山のみぞいとはるかにみえける
//  いさけふは雲なかくしそみてをたにおもひやゆくと我こし物を
//
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