#author("2023-07-11T22:44:41+09:00","default:kuzan","kuzan") #author("2023-07-12T08:09:31+09:00","default:kuzan","kuzan") [[川端康成]] 清は紙包みから、厚い本を出して、輕く投げてよこした。 「これを買つて來た」 「(全國方言辭典)……?」 「うん。僕はこのうちが、いやになつた。東京がいやになつた。家を出て、しばらく邊鄙な土地を歩きたいんだ。田舍の爐ばたで、素朴な話を聞きたいんだ。自分を埋もれさせるか、つくり直すか……。しかし、逃避は卑怯だし、不可能だ。(方言辭典)でも讀んで、いろんな田舍の言葉を拾つて、しばし、東京を忘れるのさ。弓子ちやん、二人で出て行かないか」 「去年の木の芽立ちごろに、弓子ちやんがちよつと寢ていた時、僕が(全國方言辭典)を買つて來て、邊鄙な土地へ、行きたがつてたの、おぼえてる」 「おぼえてるわ」 ((中略)) 「東京に歸つて來て、一番おどろいたのは、なんだと思う。文字の氾濫だよ。文字の亂舞だよ。町が看板と廣告の文字ばかりに見えるんだ。東京にいる 「東京に歸つて來て、一番おどろいたのは、なんだと思う。文字の氾濫だよ。文字の亂舞だよ。町が看板と廣告の文字ばかりに見えるんだ。 このごろは、ラジオにもテレビにも、侵入して來た[[大阪辯>大阪弁]]が、朝子は蟲ずが走るほどきらいだ。 「町じゆうの人が、あんな言葉をしやべる、そのなかにいたら、ヒステリイになつてしまうわ」 (中略) 「素人の聲色のお相手も、アクセントのちがうのばかりが氣になつて、きつとよく出來やしない」 「公務員口調で、あたしを教訓したの?」 「ええ?」と、清は眉をひそめて、 「公務員口調とは、なんだい。君のへらず口は、なに口調だ。