清は紙包みから、厚い本を出して、輕く投げてよこした。
「これを買つて來た」
「(全國方言辭典)……?」
「うん。僕はこのうちが、いやになつた。東京がいやになつた。家を出て、しばらく邊鄙な土地を歩きたいんだ。田舍の爐ばたで、素朴な話を聞きたいんだ。自分を埋もれさせるか、つくり直すか……。しかし、逃避は卑怯だし、不可能だ。(方言辭典)でも讀んで、いろんな田舍の言葉を拾つて、しばし、東京を忘れるのさ。弓子ちやん、二人で出て行かないか」
「去年の木の芽立ちごろに、弓子ちやんがちよつと寢ていた時、僕が(全國方言辭典)を買つて來て、邊鄙な土地へ、行きたがつてたの、おぼえてる」
「おぼえてるわ」
((中略))
「東京に歸つて來て、一番おどろいたのは、なんだと思う。文字の氾濫だよ。文字の亂舞だよ。町が看板と廣告の文字ばかりに見えるんだ。
このごろは、ラジオにもテレビにも、侵入して來た大阪辯が、朝子は蟲ずが走るほどきらいだ。
「町じゆうの人が、あんな言葉をしやべる、そのなかにいたら、ヒステリイになつてしまうわ」
(中略)
「素人の聲色のお相手も、アクセントのちがうのばかりが氣になつて、きつとよく出來やしない」
「公務員口調で、あたしを教訓したの?」
「ええ?」と、清は眉をひそめて、
「公務員口調とは、なんだい。君のへらず口は、なに口調だ。