伊藤整
https://dl.ndl.go.jp/pid/1356687/1/101
私の言葉には自分の育った漁村の東北訛りが混っていて、全国から集まった級友たちの使う「内地」の言葉に較べて躇いを感ずる
私の村出身の最も目立った秀才と言われたこの青年は、この年に、中学五年生の私に、ブルジョアとプロレタリアという新しい言葉を教え、この二つの言葉を覚えておかないとこれからの世の中に遅れる、と言った。
佐藤惣之助は「琉球諸嶋風物詩」という一聯の詩の中で、琉球語法を生かして、奇妙な新しい作品を発表していた。
父の言葉は広島ナマリなので、東北ナマリの言葉を使って育った私には、父はいつも半分ぐらい他人のような気がした。
福島辺の訛りのある言葉で喋り、英語の文章を講義した。
またマッキンノンさんは日本語にして同時に英語である典型的な言葉を知っているか、と言った。そして彼は、それが「アブナイ」であり、英語ではHave an eye!である、と説明した。
浜林教授は、黒い顔をニコリともさせず、口の奥の方で軟かく発音する英語じみた関西系の発音で言いつづけた。
岡山辺の人らしい軟かな言葉づかいの浜林教授
小林夫人は、私がこの土地で聞いたこともないほど軟かな歌うような美しい言葉を使った。東北系統の言葉を使って育った私には、時として意味が聞きとれないこともあった。訪ねて行くと、出て来るのは十八九歳と思われる夫人の妹さんで、この人も回じ言葉を使った。私は初め訪ねた時、この妹さんの軟かい京都言葉にどぎまぎして、真赤になった。[…]その人の京都弁は私に、自分が日本の古い伝統から全く切り離された粗野な田舎の青年であること、
英語のエルを発音する時のような口の構えをしながら言った。
山田書記は、青森あたりの言葉に近い北海道の海岸地帯の訛りでものを言った。それは私自身が使っている言葉と同じものであった。
梅沢教諭は癖の強い新潟訛りで私に言った。
彼は旭川の近くの出身だということで、その地方に多い関西系の農業開拓民の子らしく、海岸育ちの私や山田書記と少し違う関西訛りの混った言葉を使った。
浜林教授から、[…]彼は、英語の発音の癖でそうなったらしい、口蓋の奥の方でものを言うような変に軟い声で言った。
私たちが内地と言っていたのは、本州と四国と九州とを合わせた旧日本企体のことであった。私たち北海道に生れたものは、北海道を植民地だと感ずる気持を日常抱いてそう呼んでいたのでなく、本州とか四国とか九州と呼び分けることの煩わしさを避ける気持で「内地」と呼んでいたのだが、私の父のように広島県に郷里を持つ者にとっては、「内地」という言葉は、もっとはっきりした郷愁を帯びていたにちがいない。
秋田か青森の訛りで意味の分らないことを大声で言い合っては、
私は少年時代に、自分の育った北海道西海岸の漁村の言葉である青森と秋田辺の訛りの混合したひどい東北弁を使って育った。それは、初めて聞く人には聞き分けるのも難かしいような訛りの強い言葉であった。母も松前の人で、そういう言葉を使ったから、それはそのまま私の家庭の言葉であった。しかし父が広島県の三次附近の出であったため、私はいつの間にか少しずつ広島の言葉づかいを覚え、それが学校で習う標準語と結びついて、私のよそ行きの言葉となっていた。だから、いま、私は全国から人間の集まる奈良で、その言葉の系統が分らないと言われたのだった。
越後弁で言った。
吉田惟孝校長は、鄭重に、北国人の私たちと違って初めの方にアクセントを置く言い方で「ありがとう」と言って
三好達治は学生服に、頂上を平らにつぶした茶色のソフトをかぶり、生け垣に添って歩きながら、関西弁ではきはきとものを言い、いかにも自分の前途を確信している若い詩人という風であった。
私は楽に話そうと思うのだが、どうしても自分の言葉が他人行儀になりがちなのに当惑した。更科源蔵は「そういうわけにいかないんだよ」とか、「すっかり遅くなって困ったんだ」という友達言葉であった。北海道の私の住んでいる西部の方の海岸は、東北系の漁夫たちが古くから住みついていたので、私たちの日用語は、青森、岩手、秋田辺の訛りの混ざった言葉であったが、更科の言葉はもっと標準語に近く、訛りが少かった。多分彼は農業開拓民に多い関西地方の人間の子供だろうと私は思った。