時代小説
「父上をたずねて来たひとは、江戸弁を使っていたのです」
「江戸弁?」
登世は不安そうに文四郎を見た。
「それが何か、この国のひとではないとでも言うのですか」
「いや、江戸詰が長くてむこうの言葉を使い馴れたひとかも知れませんし、ひょっとしたら定府の方かも知れません。
無口で、たまに口をひらけば歯切れのいい江戸弁で木で鼻をくくったような物言いをするか、ぐさりとひとを刺すような厭味なことを言った。
「常住坐臥、言葉が通じないほど不自由なことはない。で、おれが国言葉をしゃべると、やつらはさっそくにバカにするんだ。それだけで人間を軽んじるわけよ。軽薄なやつらだと癪にさわったが、ま、むこうの言葉に馴れるまではずっとそんなもんだった」
「そのころには江戸弁にもだいぶ馴れていたんだが、輪読では江戸弁を使わなかった。国言葉でがんがん言ってやったのだ。変な解釈をやっつけたわけだよ」[…]不思議なことに、そういう議論の勘どころというものは国言葉でも通じるものなんだな」[…]「そのときの輪読以来、おれを見る眼が変わったというか。とにかく、それからは国言葉を侮られることはなくなったんだ」