新出の 韻鏡舊註 龜田次郎(大谷学報11-2、1930.5)
 一 
 韻鏡は、元来、支那で出来た書籍であるが、彼土では、已に、早く散逸して傳はらないで、獨、吾日本に存してゐたのである。それで光緒十年(我明治十七年)に黎庶昌が、彼土に散逸して我邦にのみ存在してゐる珍籍を蒐集して、「古逸叢書」と題して刊行した中に、之を収めて出版したのである。此韻鏡は、何時の世、何人の作であったかは、今日、詳かに知ることは出来ないが、其序文に依ると、南宋の世張麟之といふ人が、其少年時代に、之を獲て字音を研究し、晩年に訂正したものを、紹興三十一年(我二条天皇応保元年)初めて刊行し、更に、慶元三年(我鳥羽天皇建久八年)再刊した様である。又嘉泰三年(我土御門天皇建仁三年)の序文もあるから、爾後にも版を重ねた様である。扨、此韻鏡が我邦に傳来したのは、何時頃であったか、これ亦詳かでないが、序文から察すると、彼嘉泰三年、即、我建仁三年以後であることは確である。東京帝国大学国語研究室所蔵であって、大正十二年九月の震災で焼失した寛永十一天甲戌二月廿一日午刻書写了の奥書のあった「韻鏡看抜集」の巻首に、
南都轉經院律師、此韻鏡久雖所持不能讀之間、上総前司公氏屬令點之處非悉曇師難叶、終返之、爰小河嫡弟明了房聖人有之、悉曇奥義究日域无雙人屬之初加點者也。
と見え、又享保十一年刊行の和泉国堺浦の僧河野通清(叡龍)の著、「韻鑑古義標註」上の最末に、


韻鑑本朝傳來舊記云皇和人王八十九世龜山院文永之間南都轉經院律師始得韻鑑於唐本文庫焉然不辨知有甚益又同時有明了房信範能達悉曇掛錫於南京極樂院閲此書而即加和點自是韻鑑流行本邦也又和刊書籍考卷十所載大意同之又至後奈良院享祿元年清原宣賢(號環翠軒)命剞劂氏始付梓

と見えてゐるので、これらの記事から考へると、我邦傳来後、大分久しく、誰も韻鏡の事は知らなかった様である。又本邦で、此韻鏡の初刊も上記の文にも見えてゐる如くに、享禄元年であるから餘程後年の事である。今、自分は此韻鏡の舊註本で、最近發見したものについて、聊、所思を陳べて茲にそれを紹介する次第である。

 二 

上述の如く、韻鏡の本邦傳来は、鎌倉初期とおもはれるが、其研究は、尚、それより数十年の後からはじまった様である。又本邦に於て、此韻鏡の創刊は、更に後年の事に属し、足利の未期、享禄元年である。而して此韻鏡發見の頃から、其創刊享禄本、再板永禄本、以後は無論であるが、其以前に於ても、数多の研究があった事はいふまでも無い事である。それは、東京帝國大学国語研究室所藏であって、大正十二年九月の震災で、上記の寛永写本「韻鏡看抜集」と共に焼失した明了房信範が書写したものを、更に複寫した本、即、左記の奥書ある、
 本云建長四年二月十二曰書写了
 彌勤二年丁卯三月十五日書写了 主什舜
 韻之字假名私印融付之了
 武州多西郡小河内峯 於曇華庵書之了
 慶長十年九月求是
 高野山往生院於寶積院深秀房従手前是傳者也
 生国讃州屋嶋之住僧也 龍厳俊善房之
           今ハ俊之
の一本や、京都府宇治郡醍醐村三寶院所藏の、
 嘉吉元季仲春頃 権律師俊慶
と表紙裏書ある「指微韻鑑」の古寫本や、又故大槻文彦博士所藏の、
 応永卅年二月九日於敦賀氣比之社頼勢御本以是書寫申也爲無上〓《菩薩》之也求法桑門實慶
と巻末奥書ある「韻鏡字相傳口授」の註釋書や、釋〓寶(北朝貞治元年寂)の「悉曇創學抄」中「輕重清濁分別事」の條下に、「指微韻鏡」を引用してゐる點や、又「応永十五年戊子仲春時正候以師傳之趣大概記之畢」云々の奥書ある「續群書類従」所収の「反音抄」に、「韻鏡」によって諸門法を釋いてゐる點などから見ても、其一斑はわかるのである。
 以上述べた如く、韻鏡は、明了房信範が、初めて點を加へて以來、今日まで大凡六百年間に、此書に對する幾多の刊行書や、研究者の連続した事は、今更茲に詳説する迄も無いが、今日世に知れてゐる該書の最古本は、上記の大正震災に焼失した慶長十年複寫本の原本、即、建長四年本の明了房信範書写のものであるが、此は今、尚、其存否不明である。これに次いでは、前掲の醍醐三寶院所藏の嘉吉書寫本である。然し註釋書としては、これまた、前記の故大槻博士所藏の応永三十年書写の「韻鏡字相傳口授」を現存の最古とすべきである。處が最近、此大槻本よりも、更に古き註釋本が存在してゐるのを發見したのである。これが今、茲に、自分が紹介せんとするものである。それは去月中旬、大谷大学圖書館司書成瀬賢雄君が、同館三階に在る古文書類を整理中、不圖、其中から見出されて、自分に尋ねられたもので、自分は一見、直に韻鏡の古註釋である事を話して、これを取出して同館に秘藏する様に取計ったのである。此新出の韻鏡舊註は、年代からいへば、大槻本よりも五年以前のもので、韻鑑序例の本文の註釋てある。此新出の舊註は、美濃紙の巻子で、長さ約二間程の写本である。最尾に下の識語があって、其來歴が明かに知られるのてある。即、


 余欲釣悉曇之幽深甞弄九弄韻鏡之二書先有師示以沈約之意旨後有客授以張氏之口實也既雖得其綱未能解其支條也遂入西郊之紫府居声明之業時有友人懐斯序解五巻來曰是僧道恵之所抄也忽一覧猶泥惠公之志因請轉寫友乃聽也反切之要蓋〓捨此而所得而已須置之心腑徒不可抛凡案矣
 応永廿五年戊戌九月十日 悉曇未資左寺聖清

とある。これで其原本は、五巻で、韻鏡の序解である事も分かるし、其著者は、道恵といふ僧侶である事も知れるし、又それを聖清といふ悉曇學僧が、襖複写した事も知得されるのである。原本の著作年代は、此識語にある応永廿五年以前である事は確かである。左すれば、大槻本よりは、五年以上以前の作てあるのは明かである。原著者道恵や、転写者聖清の傳記は、「佛家人名辞書」や其他の關係書類を調べたが未詳である。然し其応永頃の悉曇学僧である事は確かである。詳細は尚、後日の攷究に竢たねばれならぬ。が今、自分の推測ては、前掲の識語中の文句から見て、此道恵といふ僧は寛永三年刊行の釋無絃の「韻鏡切要抄」に、元盛の疏、道恵の鈔として引用してある中の人ではなからうかとおもふのである。而も此琉や鈔の事は、後年の釋文雄の「磨光韻鏡餘論」上巻の初にもいってある。若し此推測が正當てあるならば、大體の見當がつくのである。左すれば此新出韻鏡の序解は「切要鈔」に引用されてゐる道恵の抄か又は其類書と認められるのである。万一此自分の推測が的中してゐれば無論であるが、よしや全く別種のものであるとしても前記無絃の「切要鈔」や其翌年刊行の法橋宥朔の「韻鏡開奩」を初めとして、徳川初季、寛永以後、續々世に現はれた韻鏡註疏の先驅をなしたものであることは、疑無いものであろ。又此舊註は、識語に見える如く、原本は五巻あったのであるが、此転写本では、巻首の處が缺落してゐるのである。自分は、尚、未整理の古文書類の中を捜索したが、遂に其缺落の部分は見出されなかったのである。何時の世にか、散逸して仕舞った様である。現存の部分は、前にもいった如くに、韻鑑序例の部分丈であるが、而も序例といっても、其横呼韻の末文以下のものであって、其前にある序文、調韻指微、三十六字母、歸納助紐字、歸字例の部分は、缺落し、且、散逸して仕舞ってゐるのである。それで註釋として、完全に知られるのは、横呼韻の末文、「或遇他音或側聲韻競(○本ノマヽ)能撰音讀之無不的中」の少し前の部分から以下のものである。又此註釋も、後世のものに比較して觀察すると、未熟幼稚の點が少くないのであるが、此は其時代の上から見て、研究の程度を推測してやらねばならぬ。後世其研究の進歩發達した時代の眼から見てはならぬとおもふ。縦、其註釋が未熟幼稚であるにしても、本邦韻鏡研究史から見て、此新出の舊註の殘篇は、斯界の爲、特に注意すべきものてあらねばならぬと考へる。而も識語の文中にも見える如く、此舊註の原本は、其書寫された応永二十五年以前のものであるから、此點からも亦、注目に値するものがあるとおもふ。兎にも角にも、此新出の舊註殘篇は、現今世間に知れてゐる韻鏡註釋書としては、最古本である。自分は此殘篇中から、其現存註釋の巻首の部分と、最終の識語とを口絵として示し、其全般を察知せしめる事としたのである。其全體についての論述は、これを後日に譲って、只、茲には、其紹介にのみ止めておいたのである。

  三

 以上述べた所で、最近、新出の韻鏡舊註の概略はわかったであらうとおもふ。古く、鎌倉時代に初めて、明了房信範に依て手を着けられてから」近く、徳川時代に僧文雄、太田全齋黒川春村等の大家を初めとし、幾多の音韻學者の研究や著作も澤山出で、尚、現代に至っては、満田新造、大島正健、岡井慎吾等の篤學者や、其他諸家の所説が、多く公にされて、斯學の大發達を遂げてゐるのである。今日、此方面の大發達は、此等多數の学者の苦心努力に依って、漸次成立ったものである事を想へば、此新出舊註の一殘篇は、よしや其所説に不備幼稚の點があるにしろ、韻鏡の研究發達史の径路を物語る一大資料であらねばならぬと信する。自分は、已に二十有餘年以前から、此方面の研究に意を注いでゐるが、今、尚、業績を収めることが出來すに、迷路に彷徨してゐるのである。世上、亦、自分と同じ立場に在って、其感を同じうしてゐる人も少なからぬとおもふ。由來韻鏡の研究は、至難の事業とせられてゐる。自分は、今、茲に此新出舊註殘篇を紹介して、世の研究者に資せんとするのである。多少にても、其参考とならば幸である。(昭和五年三月十日稿)

   追記

 本篇を草し了って後、最近、出版の佐藤仁之助氏の「韻鏡研究法大意」を讀んだが、其中に、同氏所藏の元亀二年に孝山といふ人の書いた跋文のある韻鏡の事が見えてゐる。これば、享祿創刊本と比較すると、反って優ってゐる點が多々あるといってあるが、自分は未見であるから、これについて何等いふベき所が無い。只、茲に、享祿割割木、永祿再板本以後にも、こんな古寫本の存在すること丈を附記しておくに止まるのである。(昭和五年三月二十五日記)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:45:21