無論、弘前と朝鮮とでは何から何まで違っていたにちがいない。しかし、たとえば言葉か通じないという点では、朝鮮も弘前も私たちには変りなかった。弘前で「むったとありす」といえば、標準語では「たくさんあります」という意味なのだが、同じことを朝鮮語では「まあにいつすんにら」というのである。つまり、どちらにしてもそれらは私たちには縁のうすい言葉であり、生涯のうちでそんな言葉を使って生活しなければならない場合はめったにないし、極く限られた狭い範囲に過ぎなかった。事実、私の父も毋も弘前で暮らした二年ばかりの問、ほとんど一語も地元の人の言葉を解さずにすごしたといっていい。それだけ私たちの生活は、まわりとは没交渉だったのである。
一と月ぐらいたつうちに、ようやく言葉だけは何となく聞きとれるようになり、自分でもいつの間にか弘前弁で話が出来るようになって、母と二人で買い物に出たりすると、私は店の人との間に立って通訳の役をつとめることになった。
言葉がつうじないといっても、国語の時間に読本を標準語でよめるのは組で私一人だったから、自分だけがまわりの子供とちがう言葉でしゃべっていても恥ずかしいとか、気おくれするとかいうことはなかった。
赤と青の色鉛筆のシンが両端から出るシャープペンシルは、朝鮮では学校の近所の文房具屋でも売っていて値段もそんなに高くはなかった。そんなものが皆にこれほど珍しがられるとは、私は思ってもいなかったのだが、いま先生に注意されると、いかにも自分がツマラないものを学校へ見せびらかしに持ってきたように受け取られた気がして、くやしさとも恥ずかしさともつかない気持で、顔が真っ赤になってしまった。
「おーい、三上うじ、ちょっと一ぷくさせてくれ。こう暑くっちゃやり切れない」
頬ヒゲをはやした投手が、何となく気取つてきこえる標準語で、そう呼ばわりながらベンチに戻ると、
私の考えでは、野球というのはもっと高級なハイカラな競技であり、弘前などではさっきの旧制高校生のように全国的に学生の集まる学校など特別なところで、英語や標準語の会話をかわしながら娯しむものかとばかり思っていた。