山田孝雄


 連歌の世に行はれすなりて年久し。大正十四年余東北帝國大學の講座を擔任するに至りてより、日を期して毎月學生と會す。時偶々連歌とは如何なるものぞと問ふ者ありき。當時簡單に一言せしかど、もとよりその眞を傳へ得べきにあらす。茲に於いて意を決して大正十五年より二學年度にわたりて、連歌の概説と連歌史とを講義したり。されど連歌は講説にてその眞味を領得せらるべきものにあらざれば鞾を隔て、痒きを掻くに似たるものあり。昭和五六年の頃星加宗一氏屡連歌を實地に學ばむことを求む。されど余容易くこれを容れざりき。その故は連歌の道は講義を聞きて之を記すを能事とするが如き人人には到底堪へ得べきものにあらす、言語と思想とを練りに練り、鍛へに鍛へずしては入り得べきにあらすして薄志弱行の徒とは縁なき道なるが故なり。されど星加氏求むること切にして請ふこと三年にわたれり。こゝに於いて試みに發句を與へて之に附けしめ、かくて鍛錬を經て辛うじて一卷を了へたり。これ即ち本集の第一に位す'る卷なり。この卷の半に至りて、二三子の參加を求むるありて之を容れ、爾來出入一ならざれども、始終一貫せる人々また少からす。それらの人々熱心之を學びてよくその鍛錬に堪ふべく見えたるにより、毎週水曜日の夜を例として稽古連歌の會を催せり。かくて昭和十五年余が仙臺を離るゝまで、八年にわたりて詠みたりしもの即ちこゝに集めたるものなり。この集には以上の稽古連歌の外に、余が同僚たりし阿部次郎、小宮豐隆、太田正雄の三氏と共に詠ぜし世吉一卷、その他余が獨吟一卷、星加氏の獨吟又はその參加せし卷々、鹽浦不二郎氏の獨吟等を加へ、末に星加氏が今次事變に從軍せし際支那にてものせし千句を附録とし、之を連歌青葉集と名づけて紀元二千六百年の記念とすることゝせるなり。本書に收むる所は主として稽古連歌にしてその一切の責は指導者たる余一人の責任に歸す。但し、その稽古の間、一年有餘にして星加氏を以て執筆の任に就かしめ、次いで菊澤季生氏をして代りて執筆たらしめ、更に鹽浦氏をして執筆の任に就かしめたり。而して始終會務を斡旋せしは中山榮子氏なり。連中の人々は出入ありて數も多けれど、上述の諸子の勞ことに多きを認むべし。今、こゝに底本としたるは星加氏の整理したるものによれり。隨つて端書は星加氏の語のまゝなるなり。今本書を世に公にするに當り顛末を記して序に代ふ。
昭和十五年十二月三十日
山田孝雄

序・山田孝雄独吟など。
https://www.box.com/s/0p000ypn8quvmjhf9lgv


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:01:35