有吉佐和子

 三度目に正子がその部屋に入って行ったとき、正子は新鮮なオレンジジュースを一杯盆にのせていて、部屋の片隅で黙々と筆を走らせている速記者の小さい卓の上においた。こういう席にはテープレコーダーだけのときもあるけれど、速記者という存在が大ていあるものなのである。彼らにはその暇がないので食事は出さないのが通例であり、話が終ればすぐ立って、鞄を抱えて帰って行ってしまう。しかし正子は速記者も客のうちだと思うので、女中たちが彼らをまったく無視することがあるとその度に気を使った。鉛筆の先から文字とも思えない不思議な記号が流れ出す。機械のように素早く走る筆先を眺めていると大変な仕事なのだと毎度思ってしまう。
「お飲みになってね、今しぼらせたところですから」
 小声で言うと、速記者は驚いたように顔をあげて、
「あ、すみません」
 と大声で言い、座談会の方では先生が、ひょいと此方を見た。正子は慌てて部屋の外に出た。

そこへ最後の出席者が来たので、速記者は隅の机の上に、ペンを数本ずらりと並べて用意をし、部屋の空気は改まった。


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2023-07-10 (月) 15:43:03