朝山信彌
「国語・国文」第7巻第12号(昭和12年12月)

 南宋の「鶴林玉露」の中に、


余少年時於鐘陸邂逅日本国一僧名安覚自言離其国已十年欲尽記一部蔵経乃帰念涌甚苦不舎昼夜……僧言其国称其国王曰天人国王安撫曰牧隊通判曰在国司秀才曰殿羅罷僧曰黄榜硯曰松蘇利必筆曰分直墨曰蘇弥頭曰加是羅手曰提眼曰媚口曰窟底耳曰弭々面曰皮部心曰母児脚曰叉児兩曰下米風曰客安之塩曰洗和酒曰沙嬉

と言ふ記載がある。その中の日本語彙「僧曰黄榜」とあるのについて、まづ多少の音韻上の考察を加へたいと思ふのである。

 此処に一言お断りして置きたいと思ふ事は、以下の私の論は、在来の説の様に、「黄榜」が「御坊」であると言ふ仮定説の上に立って居る事である。さうしたよみ方がどの程度まで真実であるかは、常識的に考へ得られる限りで最も妥当であると言ふ事の他に、直接に認証する方法はないのであるから、他に別な良いよみ方がある時には、この論は勿論さっぱりと抛棄するつもりである。
 さて、「榜」字は、古代音は別として、現代の諸方言悉く音頭〔P〕(安南字音のみ〔b〕)を有し、韻母は〔a〕〔o〕又はその中間音である〔a゜〕であるが、韻尾の鼻音は、安南字音・広東・客家・汕頭・福州・上海・北京・開封・懐慶・四川・南京諸方言に現存する他は、帰化城・鳳台等の六方音で微弱な通鼻母音としてその面影を存し、温州・大同等の六方音では全く消失して居る(1)。「鶴林玉露」中に用ゐられて居る方音は判らないけれど、まづあり得る限りに対ては、――極めて図式的な書き方をすれば、

 〔paη〕
 〔pa゜η〕
 〔poη〕
 〔pa〕
 〔pa゜〕
 〔po〕

等が考へられるが、韻尾の消失は新しい形であり、韻母については、〔a〕>〔a゜〕>〔o〕が考へられる事を考慮すれば、この中では比較的上方の形に可能性は多いわけである。ともあれ、この六つの各々の場合にあって、それによって音写されたであらう原日本音の性質を考へて見よう。
 第一、第二、第三、の場合には韻尾の〔ng〕がある。これが日本語のいかなる音韻に対応するのかは問題であるが、大体次の二つの場合が考へられる。即ちその一つは母音ウであって、これは古代日本字音で、母音ウで〔ng〕が音写されて居る事から逆推するのであるが、実はこの現象は大体古代日本語の音韻体系が音節的な鼻子音を持たなかった事にもとづくらしく(2)、近代支那音の〔ng〕は、所謂唐音では国語の撥音で音写せられて居る事から考へても、当時も現在と同様のンに近い音価であった事が想像せられるから、〔ng〕で国語のウを音写して居たとは考へられない(実際、日本風土記や日本寄語等を始とする明代資料にもこの例は絶えて見ないし、又母音ウを音写するにもっと適当な音節が近代支那語の中にはある筈である)。他の一つの場合は、撥音ンであるが、これは「坊」字に関する限り可能性が乏しく、その上明代の書写資料では、国語の撥音は、例へば、「苗念(明年)」「散哇的(三月)」「宣哥(香)」「新雷(親類)」「身大(死んだ)」「避然(備前)」の如く原則として〔n〕で写して居るらしいのに反し、〔ng〕で写されなかったらしい事から考へても、これにも従ひ難い疑問が殘る(此処で唐音の場合と彼我の対応関係が複雑になって見えるのは、一言で言へば、両音韻体系間の要素上の粗密の問題に關連するものである)。これによれば、韻尾の〔ng〕は、実は国語のいかなる音韻にも直接には対応しえない性質のものであったらうと思はれる。用字上の便宜から出たとか思はれない、さうした場合の無意味な喉頭鼻音尾の存在が明代資料からも多く微証する事が出來る。「明東(水)」と「申阿農(信濃)」「朽岡(罔カ)(雲)」「別姑常(百姓)」「道門大聖(友達)」等はその一例なのであるが、「榜」字の場合も亦これであるとして説かなければなるまい。
 私のこの臆説が許されるならば、次に、「榜」字の母音部〔a〕〔a゜〕〔o〕等が、国語「坊」の母音部に相当して居ると説かなければならぬ。その時には、ともかく「坊」の母音部が、厳密な意味での二音節風な相隣る二個の母音群等でなかった事だけは確実である(古代の推定音からしても、現代の方言からしても、「榜」宇の韻母に二重母音の存在を仮定する事は出來ない)。即ち、その母音部が何らかの点で単一母音の樣な聴覚を与へるものであったとすれば、二個の母音群は、すでにこの時代に――少くとも備中の人安覚の発音にあっては――単一の長母音に近い性質を持って居たのでなからうか。

 国語におけるエウ・オウの母音群が、漸くオ列の単長母音に近く発音され出したのは、少くとも院政期の初頭までは遡れるらしい。関戸本古今集の詞書(3)についてかつて報告されてゐる例や、院政時代の最初期に見出されるその他の一二の類例(4)等は、有力にかゝる事実の起原を物語る様に思はれる。
 古今集の「芭蕉」が「ばせを」(5)であったと同時に、又程なくそれは「バショ―」であったであらう。前者における意図的な音韻添加の意義が、宣長翁の「みくにことばの如く言ひなせる」(6)事であったとすれば、又字音語の母音重出を忌避しようとする社会意識が同時にこの方に働きかけて典雅な長母音への音韻変化を促したであらう。オウの変化は最も早く、初期の点本におけるオウの傍訓(7)はすでにオ長音を表はして居たらしいが、エウも程なく、恐らくアハワ三行の混乱に前後してその変化を完成して居た様であった(8)。かうした母音群の長母音化傾向が、続いてアウの上を襲はなかったと考へられる理由はない。大唐三蔵玄奘法師表啓の「昊」に加へられた訓点の「カ乎」が、矢張りその初期の動揺時代の遺物であると考へたい事は、あるいは遠慮しなければならないとしても、例へば文鏡秘府論の訓点(9)におけるアウ、オウの表記法上の混乱等は、たとへ方言的の特異なものであったにしても、アウの長母音化の傾向が可成り一般的になって居なければ起り得ない筈であった。

 エウ・オウの長母音化が表記法上の混乱をきたしたにかゝはらず、アウの長母音化がそれを來さなかったのは、前二者から出た長母音と後者から出たそれとの間に何等かの音韻的差違のあった事を思はせて居る。その識別はほぼ近古時代の末葉近くまで話者の意識の中で保存されて居た様(10)であって、一時学界での論議の的となったオ列長音の開合の問題が即ちこれであった訳である。
 唯今までの学説では所謂開音のオの歴史が不明瞭であって、アウと言ふ母音群から単長母音の発生した時代の記述が至って不明確であったのであるが、以上の考察がもし事の真実に近いならば、その発生はともかく院政期の末葉頃にまでは遡れさうに考へられるのである。
 以上はもとより論文の体をなさない平俗な覚書であった。唯その平俗な覚書であったまゝにこと〴〵しい仮装行列をさせる事が嫌はしいので読者には甚だ失礼な論文であったかも知れない事をお詑びしたい。

 (1) B. Karlgren: Etude sur la phonologie chinoise.
 (2) これは大体の論であって、実は十分に説明のついて居ない点もある。
 (3) 国語国文昭和九年九月、伊藤寿一氏稿
 (4) 承徳三年点将門記、兇の音註の「ケウ」、東寺百合文書、康和五年五月八日家地売状(大日本史料三-七、四一四頁)の「ようよう」(要用)等。
 (5) 和名類聚抄、新撰字鏡等にも。
 (6) 字音仮字用格。太田方、関藤政方等に説があるが採用出來ない立場上の難点がある。
 (7) 大唐三蔵玄奘表啓の「許のコウ」、金剛般若集験記の「吐蕃」の「トウ反」等。
 (8) 伊藤氏の前掲論文によれば、同書にはアハワ三行の表記法上の混乱は見えない様である。
 (9) 国語と国文学昭和十年五月、星加宗一氏稿。
 (10)橋本進吉博士「吉利支丹教義の研究」土井忠生博士「近古の国語」菊沢季生氏「国語音韻論」等参照。但しアウ、オウの表記法上の混乱例は、報告されて居ないけれど、実は慶長以前興国前後からの古文書にぼつ〴〵見えてゐる。

(追記) 本文には直接関係のない事で省略したが、「黄」字は歴史的にも現代の殆ど全部の方言からしても、「榜」とは開合を異にするだけの同性質の母音である。敬称の「お」「ご」、愛称の「わ」(わ君・わ殿ばらの)等が考へられるすべての訓みであるが「わ」は対象に向っての語で、一般的な場合の語彙としては現はれないであらうから、その可能性は前二者--殊に「お」の方にある。(同書の他の音訳中に、「雨曰下米」とある「下」字は匣母で頭子音を落して居るから、「黄」字もこれに準じて考へられるのである。「黄」字をオー当時のウォーの音訳に用ゐた例は、日本寄語の「黄旗」(扇)を挙げる事が出來る。)そして、「黄」が国語のオを音訳するにふさはしいものであったとすれば、その方音では「榜」字の母音も大体はオに近い性質であったらう。この考へ方は第二項の結論に参考となるものである。
 第二項について――オウ・エウの表記法上の混乱例は、平安末期の治承本伊呂波字類抄や法華修行一百座聞書抄等にも勿論いくつか拾ふ事が出來る。もと貞永元年十月三日の識語のあった筈の小綱自筆本の写しを、更に白毫寺二伝本によって元応元年霜月十八日に書写した由の奥書のある、京大国語国文学研究所室蔵の反音抄には、悉曇の十二の摩多の下にそれ〴〵支那の韻頭文字を分摂させるに当って、〓〓の下に麻歌才韻を、〓〓の下に支脂之微韻を配すると同時に〓の下に蕭宵尤侯幽韻を配して居る。これはエウがすでにオ列の長母音であった事を示すのである。(幽尤等普通にイウであるが、エウに準じて扱って居るらしい事は九条家旧蔵本の法華経音にも見えて居る。)
 最後に前には言はなかった事であるが、「黄」の鼻音尾が後続する「榜」字の頭子音を有声化して訓ませる為のものであるらしい事は、有声子音の無声化傾向を著しく見せて居る近代支那音にあって、明代資料にもその類例を無数に指摘する事が出來る。朝鮮の方の捷解新語等の諺文表記法等とも関係がありさうなのは、我々の興味を引く事である。
  以上、初校後の余白を戴いて追記して置く。(十一月一日)

               ―昭和十二年十月十六日―

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Last-modified: 2022-08-08 (月) 01:19:27