森崎和江
悲しすぎて笑う
女座長筑紫美主子の半生


「佐賀市に住んでいました私が他県にでまして、はじめてお芝居しましたのが、中間のお隣の香月村でした。まあだ戦争中です。あそこで佐賀にわかをいたしました。それこそ福岡県にでてはじめての舞台だものですから、私ははりきってしかかったのですよね。
 そうしたところが、お客さまが、しらーっとしていらっしゃいます。しばらくして『そりゃどこの芝居ね、シナの芝居ね』と聞かれました。『なーんもわからんよ』と言って、ぞろぞろ帰って行きなさったとです。男の方も、おばあさんも、子どもさんも。
 次の日は化粧して待っとりましたが、一人もみえません。それこそ猫の子一匹きません。佐賀弁が通じませんのです。
 さあ、どうするか……お芝居しなければ食べられません。興行師さんの腹立てて腹立てて叱りとばしなさるばってん、どうもこうもなりません。佐賀にわかは佐賀弁でなしゃあ、面白くもなんともないとですもの。方言の面白さで笑わせるお芝居ですもの。
 それが言葉が通じないとなら、どうもこうもならんとです。たった県いっちょちごうただけで、こがん言葉の通じんとは、知りませんでした。
 さあ……、どがんして食べよう、と、頭かかえました」
 そして翌日、中間の町の劇場に入ったというのだった。
 ここでは佐賀にわかはせずに、時代劇と人情物をした。どちらも共通語のせりふなので何事もなく終った。
 けれども筑紫美主子劇団の売物となる芝居は佐賀にわかである。


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:04:20