橋本進吉
源氏物語
原中最秘抄

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『橋本進吉博士著作集12傳記・典籍研究』

!--一一囀246一
國語と國文學 源氏物語號
源馬物語研究史の新資料
一三〇八
橋 本 進 吉
£彰,
 國文學の文献學的研究に於て、河内守光行、その子親行並にその一門は甚重要なる位置を占めて居る。源氏物語の本文研究並に註釋は、光行及親行によつて初めて大成せられ、その校定にか丶る河内本は久しく源氏の定本として用ゐられ、水原紫明原中最秘等の諸抄は、永く源語解釋の典據となつた。しかのみならず、親行は多くの異本について古今並に萬葉の按訂を試み、その萬葉の按本、は仙覺の校定本の基礎となつた。叉假名遣の規範として永ぐ後世に行はれた定家假名遣は、親行がはじめて制定し孫行阿が増補を加へたものである。かやうに光行親行等の研究は、艫の方面にも亘つて居るとはいへ、その最精力をつくし、最立派な成績を擧げたのは、いふまでもなく源氏の研究である。しかるに光行親行等の源氏研究がいかにして爲されたか、校本や註釋書が何人の手でいかなる方法によつて作られ、いかにして傳へられたか等の點については、不明な事が甚多く、光r行親行の傳記事蹟も明瞭を飲き、その子孫の如きも、多くは名きへ定かでないやうな有樣である。しかるに、前田侯爵所藏の古寫本原中最秘抄は流布本とちがつた本であつて、その卷末に存する親行及


一・一247一一一6 5
その子聖覺(義行)並に聖覺の子行阿(知行)の奧書は光行以來代々の源氏研究の次第を敍する事委しく、、未知の事實を傳へて居るものが少くないから、源氏研究史の薪資料として之を紹介しようとゐもふ。覧
 前田本原中最秘抄は、胡蝶裝の册子一冊で、内は上下二卷にわかれて居る。室町時代の書寫本で行書片假名で書いてある。世に流布する群書類從本と比べて見ると、その項目は大抵同一であるが、註は甚相逹があつて、この本の方が甚委しい。類從本は耕雲明巍の跋に哨、芟二夷其繁辭幡撮二取其典要一以便二後學之觀覽ことある逋埀、明巍が原文に省略を加へた本であるから、明巍の據つた本は前田本の如く委しかつ控ものと思はれる。しかし、類從本も前田本のや5な本を直に略したものとは見難い點もあつて、最秘抄の原本の形については獪研究を要するが、前田本は大體に於て原本に甚近いものと考へられる。≧の本はまだ世に知られて居ないものであつて、先年自分が假名文宇遣の研究を試み親行及行阿の事蹟を明にすべき瓷料を諸書に搜つてゐた時、たまー加持井宮舊藏源氏物語千鳥抄を得てその卷末に附記した原中最祕抄の拔書を見て、類從本とちがつた最秘抄の異本がある事をしう、爾來最秘抄の寫本を諸處に索め、途に前田家に於て之を見出したものであるゆ
 今左に奥書の全文を掲げ、後に解説を附する事にする。(括弧の中の文字はすべて今加へたものである。返點も新に加へた處が多い)
  源氏蜘語研究史の新費料.            一三Q九


一248一一一・
 國語ま國夊學 源氏物語號                 一三・昌○
此物請古來本セ異設依〆多ゾ之以二諸家之八本鳳加こ校合一畢依ゾ之京極中納言家以二亡父證本一校二合家
本一之由巌命之旨如〆此末代之龜鏡所二續加一也 親行在鋼、於為炎暑之澄下一陵ゾ(凌力)汗校ふ倉愚本鴫直
                                リ         ム    クチ
.,付畢此上自レ本之誤非許略所ワ存  拗光源氏物語者租父大監物光行久携二此道レε究コ奥區こ就レ中
於二水原鈔一者後京極攝政家久我太政大臣後徳大寺左大臣家五條三品禪門等同悉被ψ合ン力談申也但
草案之時光行成(ママ)亡之問前父河内守親行終二其功一畢然後文(叉力)博訪こ有識門一普談二歌仙家一重
          ト
爲二集注一名二原中最秘鈔一面々所二勘迭一之證斌等續こ加卷中一訖其上以二家々八本輔注二説々不同脚京極
中納言家之證本大畧相二同家本一之由彼卿所〆被ゾ加こ奥書一也但(月力)後嵯峨院御宇以二隼人正盛季一被
ヅ召一象本一備二高覽一之時預二種々叡威一畢叉太上天皇持明院殿坊御時被ゾ行二彼物語論談一之時以P覲行
之説噛被ゾ用二難儀之支證鰤事在レ之所謂7カムトホリタミシカ.ぞ7シ誚フアヒ人等是ナツ當道之光
                       ト
花吾家之眉目也衣於コ揚名介輔者學二此道一輩注二惟多卿當家之外傳二深奥之読一者頗稀者歟其故者後京
極攝政家以二御秘説一被レ授二下光行一之時蒙二條々御庭訓一畢最可び謂二佳模一乎加之親行鎌倉右大臣家
並入道大納言家三品中務親王家三代之撫爲二和哥所之奉行一爲二彼物語之御師範一依γ之於二揚名介鰰
者以二吾家之秘説一授=申二代之將軍一叉二條相公雅有卿年來依γ爲こ親行之門弟一可y傳二受件説輔之由
懇望之時被ゾ贈二一首囀
、、君ナラテ誰二ヵトハンタヵホノ花ノァルシヲシ沙人ソナキ


・ノ鑿選選鑼
次後徳大寺入逍太政大臣家於二此物語一依ソ有こ師弟之御芳諾噌被び途二直貴札一之日御表書仁被ゾ戴二(載
                     ニ
カ)光源式部大夫之名一訖叉衣笠前内大臣家御淌息苹親行爲ご當道之棟梁一向可ゾ存=門第之儀一云々
此外於;郡鄙鱒諾二師弟一輩不ゾ可翻腱講り凡光行之餘流雖び多γ之云コ兩筒懿力)秘説一云ご口嬉異説一聖覺
一人所二相傳一也爲二後日輪比宴マ)記之而巳
、「正和二年八月十五臼
                               俗名義行
  、ー・                 桑門聖覺在判
・一一一248一
光源氏物語相傳事自二曾租光行一至二行阿一四代所レ令二相績脚也隨而此物語五十四帖同水原抄五十四
卷井原中最秘鈔上下二卷其外口傳故實當道之庭訓悉令二傳受"者也以二是等由緒輪後醍醐院御重作々
々(祚之力)初彼物語一部以こ家本一可輔書進一之旨被ゾ下二綸旨一之問逾二害功一備二叡覽一之時其表穉蟻二黷二
一者r        簡  り            ' .   鹽 ~、}  .    ;ー: …更
 勅ナレハイ筆モカシコシ水クキノカキヲク跡ハタエシトヅ思
則以一藏人中將具光一經二奏覽一其時武者所當番之問所〆罷二預種々叡臧鞠也後日重爲二勾當内侍於奉
行一忝被ゾ下二假名褒美之勅書一畢叉御子左大納言爲家卿爲ご此物藷之祀師奥入作者榊京極中納言定家
        チチクづノバカマ
                                         テ
    カウブノハコ
擲後胤也香嚢筥拜落栗袴事以二白筆一元弘鯲朝揚名介秘論事可二相傳u之旨頻被二懇望}之時贈凶二
 一腺氏物`語.砺究史の新=資料                   〕三一一      ●


 國語と國文學、源氏物語麗                 一三一二
首轍云
 オホッカナ其名ヲタレトタカホノ花ノアルシノ行エシラ璽ヨ
   返シ           ・
 アルシヲハ誰墾モイカテタカホノ花ノ其名ヲシラセスモ哉,
叉彈正親王忠也家預二師弟之御契約一所レ奉ゾ聽二水原抄之披見一也爰去年之春在京之時自三一條大閤鱒
有ソ召之問參入之處斯物語御傳受事依レ被二仰下ジ之秘説奧義究二淵底輔之由捧二愚書一畢翌朝献こ賀
札慚時之愚詠}二云
 イカニシテ此道ナラナ老ラクノ身ハシモナカラツタヘァケマシ        亀   ・㌦
以二彼御自筆一預二殷懃之御書鰰上者御贈答云
 淺カラス潸ヲソ思フ紫ノソメシ心ノタクヒナケレハ
此事ヲ傳聞侍テ頓阿法師ノ許コリ申侍シ
 イブハ世二」本ノ、切ア紫ノサソタクヒナキ色渉ミツラム
   返シ
・紫ノ鱒本ユヘニミッアカナ獪色フカキ人ノコトノハ
云ノ袷云ゾ恰成二師弟約一輩不レ遑コ勘勒輔凡兩部秘抄事自こ光行之昔一至二行阿之今一蓮所二考加ワ之也縦


一一25念←一
者父・溜饗露鸛二代史記百三+豢旭ゾ之民轟篠禦左爲定轟撰二續後拾遺二+拳.和漢之
                             コノカタ
例如ゾ斯又於二和哥道一者曩組木工頭季遠朝臣自ゾ爲ご詞華集作者鱒以降豊前守光季大監物光行,河内.守
親行兵衛大、夫義行所(葵所力蘿色劒留將監知行懸大奪經行七代相こ塰,流勅撰耋薪千載.
・等一十三代作者也就中吉野先皇御漕天之時攝二度々公宴一畢加之龍樓竹園執柄大臣家等所々會席之
倹二末塵者也云源氏之馨一ムニ和哥之先途顧不レ恥二篇ぎ哉家之光花道之晉舞如乏然問
                    アグ                                          
武藏野紫色彌染二衆人之心一淺香山之青嵐遙揚コ萬歳之聲一爲レ傳二末葉二紙記之矣
 貞治三年九月廿七日
  、・、                   、9・ ・、、    俗名知行
                               鳩杖隱士行阿在判
鮨脚覊鞴髏鬆鈔上下二卷暫奉・篷寝力)也
貞治三年+二月百        行・阿,勢
雌F.下,一冊者光汲氏物語深奥大事祕詮等也依乱當象先達等勘二注之一奩穏院殿表年暮春始於二江蝦鈎御
 源氏物語班究史の競賓料    ●      .      、;噛コニ


一一2駆一一
 園語と國交學 漂氏物語號    .             ニニ一畷
陣鰰可ご書進上輔之由被二仰下隔條己雖γ染二禿筆頓不ソ終二御存員中其功一仍入二釋門一向二靜栖窓一邃二書
寫一訖矣
 延徳第二仲・春下旬
 ,… 〆 '    ` '   ・  齟
桑門傴月宗高,
右の奧書についてすこし解説を加へると、最初の「親行在鋼」までの部分が親行の奥書で、父光行が八種の異本を以て校合を加へた源氏の校本を藤原定家が借う受けて自家の本に校合した事を記し、記念の爲にその時の定家卿の淌息を此處に續ぎ加へて置く由を記したもゆ、」次のづ於炎暑之燈下しから「非計略所存し按でがその定家の淌息の文と認められる。以上は源氏の本文に關する事であるからして、はじめから此の書にあつたのではなく、光行の源氏⑩校本の絡忙あつたのを、親行'の子義行(聖覺)がこの書に奥書を加へた時、此處にうつし加へたのではあるまいかとあもはれる。次の「掬光源氏物語者」以下が、義行の奧書で組父光行及父親行が源氏研究に力をつくし、その淵底をきはめて世に重ぜられ、後嵯峨院がその源氏の校本を召して叡覽になつだ事をはじめ、名円高家の人々が,屡教を請ラた次第を叙し、Zれ等の秘読口傳を義行一人がことごとく相傳した事を邇べてゐる。次の「光源氏物語相傳事」以下は義行の子知行(行阿)が曾粗父以來傳來の校本や註書


を相承し、秘訣口傳を悉く傳受し、後醍醐院の仰によつて源氏の校本を書寫して奉6叡戚に預つた
事や貴紳の請によつて源氏を侮授し力凡事などを、道の面目家の榮譽として末葉に傳へん爲に記し遼
ものである。(この文には=一個處脱文があるかの疑がある)。その次の貞治三年十二月の奧書は、
行阿がこの書を二條攝政良来に傳授した時記したものであ5、最後の延徳二年の奧書は、偃月宗高
が、原中最秘抄が自分の家の先達の著であるによつて、延徳元年、江州鈎の御陣に於て、之を書寫
して献上すべき由將軍義術の命を受け安が、未だ書寫の功を畢らないうちに將軍が薨じたので、禺
家入道してから杢部の書寫を逾げた由を記したものである。この宗高の奧書は初に「本云」と肩書
してあるから、前田本を書寫した時の原本にあつたもので、隨つて前田本は延徳二年以後の書寫と
考へられる。
一一253一一一
一右にあげた原中最秘抄の奥書によつて、從來知られなかつ箆事實を明にし、
碩をたしかめ得るものは甚多炉が、その著しいものは略次の如くであらう。
     Q.
 まつ源氏研究史に關するものでは
一、光行の源氏の校太を定家が借用して自家の本に按合した事.
一、光行の本と定家の本とは大概同一である事e:
  源氏物講研究史の薪・喪料 '
叉は不確であつた事
;二五


節25←
  塵語と國文學 源氏鈎語號                 一三一六
亠、水原抄は光行が草した稿本を親行が完成した事
'り、水原抄を作る時、後京極攝政良經、久我太政大整蓮光、後徳大寺左大臣實定、五條三晶俊成等
 が助力した事
     飛
一、原中最秘抄は、親行の時諸家の説をあつめて作つたものである事
一、水源抄及原中最秘抄は、行阿の時に炉たる凌で代々考加へた事
一、後醍醐院の御時、仰によつて行阿が家に傳ふる源氏の校本を書寫して献上した事(仄に承れば
 京都御所にある代々御相傳の御物の中、南北朝頃の河内本があるとの事であるが、それは行阿の
 上つ海本と關係があるのではある設いか》
次に河内一流の人々の事蹟については、                       -
』、親行の子孫の系譜がわかつた事
:その系譜は次の如くなる。    .  、  ♂
  親行ー義行灘舗獣鰍ー知行瀞崙砺羅咆劔留將監4經行大和守
.♂義行が親行の子である事は勅撰作者部類によつてわかつて居たが、知行經行は作者部類に名があ
 るけれども、その關係は不明であつた。奪卑分脉に親行の子に秀行(藏人所雜色)がある。これな
 義行の兄弟かもしれないが、懐た「秀」は門,義Lの誤寫で、實は同人であるかもしれない.、獪延


一一255・一一・
                          む む
 徳二年に原中最秘抄を書寫した偃月宗高は、その奧に「當家先達等勘注之しと記してゐるによれ
 ば、親行の後裔であるやうであるが、綾だ他に確證を得ない。
一、親行が、將軍實朝頼經及宗奪親王の三代の問、和歌所の奉行であう、將軍の源氏物語の師範で
 あつた事(其他、義行の奧書の大部分は親行に關する事柄であつて、多くは未知の事實起氈す
 る)
一、親行の孫であるといふ事の外知られなかつた行阿の事蹟が、その自記の交にょつて、よほど明
 になつた事
以上は奧書の文から直に知られる事實であるが、獪他の資料と對照した結果知う得べき事は、
一、親行の法名及在世年代にっいて・
肖分は先年飛鳥井雅有の隣女和歌集四(自交永九年至建治三年)雜の部にハ、河内入道覺因の許へ揚
名介事とひ侍とて」と題した賂答歌を見出して、河内入遣覺因は即親行であらうと推定したけれども
まだ確證を得ない爲斷定する事が躓來なかつたが、≧の義行の奧書の中に、雅有が親行に揚名介の
説を受けん事を懇望し陀時の歌としてこれと同じ歌が舉げてあるによつて、はじめて覺因が親行で
ある事をたしかめる事が出來た。要噺κ親行の在世年代については、隣女和歌集卷三(文永七年至同
八年)春部に親行と雅有との賂答歌があるのを見出し、之にょつて文永七八年まで生存しだ事をたし
  源氏物語研究史の新寳料                  ;=七


256一 一
  區語と・國交學  源氏・物語號                   ;=八
かめたが淺河内入道覺囲が親行であるとすれぱ、隣女和歌集にょつて文永九年以後まで生存して居
控.事が知られるのであるo 'r.'   。   "髄  8、
一㍉行阿について
源知行の名は勅撰作者部類五位の部にあつて、傍に河内と註して下に阿波守とあム、又建武年間記
にも武老所結番事の内、六番に河内左近大夫知行とあつて、光行の子孫とは推測されたが、行阿の
奥書によつて、はじめて、この知行が親行の孫行阿である事がわかつたのである。獪、知行が後醍醐
                    へ
院の御時武者所に候し題を賜つて歌を詠んだ事が新千載集巻八に見えてゐる。
】、義行及經行について㌔
親行の子義行は玉葉續千載及新千載の歌の作者であム、行阿の子經行は新千載の歌の作者であるか
ら蛇等の撰集及作者部類によつて官位交友等が知られる。
 獪義行及行阿の奥書に於て注意すべきは、紫明抄のことが一言もない事である。行阿の奥書にも
源氏の校本水原抄原中最秘抄を列舉もて紫明抄を擧げず、義行の奧書に爾箇秘説と云ぴ、行阿の奧
書に爾部秘抄と云ふのも、永原抄と最秘抄とをざすのである。多分親行の子孫の家には紫明抄を傳
へて居なかつたのであらラ。紫朋抄の薯者素寂は、まだ俗名を明にしないが、紫明抄中の文によれば親行の弟であつたらしく(孝行とするの緩疑はしいが)、紫明抄はその子孫の家に傳へたのであ
O


らう。義行が奧書の終に「凡光行之餘流雖ゾ多レ之云二爾箇秘説=至口溥異説輔鑾覺一人所二相傅輔也」
と記して、光行親行の秘説口鯨を相承したものは自己一人のみである事を朋にし控のは、紫明抄な・
どを傳ふる、一門中の他の流涙に對して、白己の所傳が正統であう嫡流である事を主張したものと
解して必しも附會でなく、むしろ、義行がこの奧書を加へた主意はこ丶に在つたのではあるまいか
とあもはれる。さうして水原最秘の兩抄を傳へた親行の流と、紫朋抄を傳へた他の一流とが、何時
如何にして相合し、仙源抄に於けるが如く、以上三種の抄物が相並んで舉げられるや5になつ完か
は、今後の研究を要する興味ある問題である。
 以上述べたのは前田本原中最秘抄の奧書だけについてであるが、單に奥書ばか6でなく、前田本全體が獪幾多の新しい資料と疑問とを提供するものであるけれども、此等は今後の研究と調査に俟つべきものが多いから、今はた讐研究資料として價値最多き、親行以後代々の奧書を舉げるにと亡
めてあく。
一一・257一一
源氏物語研究の新啓八料
一三一九


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:06:55