武田麟太郎
弥生さんの話を書く。
弥生さんなぞと呼べばいかにも親しそうだが、知合になってからまだ半年ばかりしか経《た》っていないし、それほど深い往き来があるわけでもない。普通に佐々木君の奥さんとか、たんに佐々木さんと言う方が礼儀にかなっているだろう。しかし、自分たちはいつの間にか、当の相手に話しかける場合にもなれなれしくその名で呼ぶようになっている。佐々木さんでは感じが出ない、やはり一種の愛称として弥生さんでないと、どうもあの美しい人らしくない。聞いてみると、子供の時はもちろん、結婚以前も旧姓でより、弥生さんで通っていたそうである。弥生を姓だと思っていた人もあるくらいだという。彼女に向うと、誰でもがそう呼びたくなるのはおもしろい。
弥生さんの旦那の佐々木君も、じつはこれもたいして深い馴染《なじみ》ではない。いうならば、ほんの行きずりの知人で、南海の輸送船上ではじめて遇《あ》った人だ。