火野葦平
小説
    徐州会戦従軍記


 五月四日
 晴れわたったよい天気である。
 出発の武装をして馬淵中佐の部屋に行く。班長は、私が入って行くと、高橋少佐宛の書面と、任務に関する訓令書とを書いてくれ、|蚌埠《ぼうふ》報道部の状態、前線に出ている報道部の区署など丁寧に指示してくれた上、給仕辻嬢に命じて|麦酒《ビール》を取り寄せ、元気でひとつやって来てくれたまえ、と麦酒を抜いて注いでくれた。私はコップを取り上げ、溢れ立つ泡を大事なもののように噛みながら、|先達来《せんだつてらい》より馬淵班長から示された限りなき深き理解の心に思いいたり、それだけに一層何かしら軽からぬ荷物が私の肩に載せられたような感懐を持った。私が不動の姿勢を取って敬礼をし、扉を|排《お》して出ようとすると、君は拳銃を持って居ないね、僕のを持って行きたまえ、と、モオゼル十連発の拳銃を貸してくれた。
 |北四川路《きたしせんろ》を通り、打ち砕かれた惨澹たる|閘北《ざなく》の廃墟を抜け北停車場に着く。線路のところには陸戦隊の歩哨が立って居る。ガソリン・カーに乗車。満員だ。軍人ばかりで、将校が大半である。午前九時発車。|上海《シヤンハイ》の街が次第に遠ざかって行く。暑い。窓を開けても、むっとするような熱気のある風が一層じっとりした暑さを感じさせる。おまけに、眠いが、寿司詰めなのでどうにも仕様がなく、居眠りをして居ると、あちこちに頭を|打《ぶ》っつけてばかり居る。蘇州でサイダーを買う。咽喉が渇いて居たので非常にうまかった。支那人が寒山寺の石刷を売って居て、何も言わず窓のところに持って来て拡げて見せる。蘇州から先は線路の両側にはずっと深々と繁った|楊柳《どうやなぎ》の並木が続いて、水田の中で支那人の子供が沢山水を浴びて居る。ガソリン・カーが近づくと、手をあげて口々に、煙草進上々々、と連呼する。この支那の子どもは自分で吸うための煙草をくれろというのだ。


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 01:17:07