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全齋 音韻學者
【姓名】太田|方《はう》。幼名龜之助、通稱八郎。字は叔龜
【生歿】寶暦九年生れ、文政十二年(二四八九)六月十二日(十六日とも云ふ)歿す。享年七十一。
【法名】功徳院道譽悟眞全齋居士
【墓所】東京市芝公園地五號地十番永平寺出張所内、威徳院
【家系】代々福山藩阿部侯に仕ふ。祖父三助は御者頭、父藤藏は御旗奉行格、全齋には四男(五男か)一女(二女か)あつたが、男子は皆夭死した。
【學統】誰を師としたか明かでないが、少年時代からの親友、小川泰山・近藤正齋等は山本北山に學んでゐるから、或は彼も北山に學んだかと思はれる。
【閲歴】江戸の福山藩邸で生れ、幼名を龜之助勝朋といった。十七歳の時初めて藩侯に謁し、安永八年二十歳で名を八郎と改め、翌年世子(阿部正精)の近習に任ぜられた。天明六年(二十八歳)父が隱居して家督を繼いだ。同八年三月御講釋並に御家中學問世話を仰せ付けられた。その後世子の小姓頭に進み、御側御用役・御側御用人を歴て、文化十四年(五十九歳)御年寄格に進んだが、文政六年六十五歳の時病氣によつて隱居し、養子藤七郎に家を讓つたが、特別の御思召によつて二十人扶持を賜はつた。隱居後全齋と號し、同十二年六月十二日病歿した(天光院の戒名及び日別廻向帳には十六日とある)。
【業績】全齋は漢學者で、特に音韻の學に精しかった。一般漢學の方では、「韓非子翼毳」が代表的著作であるが、識見高く考證該博で、斯學に裨益する所大なるものがある。が、全齋が學者として有名であるのは.「韓非子翼毳」等の著者としてよりも、寧ろ「漢呉音圖」(別頃)の著者としてである。抑々音韻の學は漢學者が專攻すべき學問であるにも拘らず、我が國に於ては、古くは殆ど僧侶のみに研究せられてゐた。國語學者たる本居宣長が音韻學を國語研究に用ひたのは、斯學の一轉換である。而して漢學者たる全齋が音韻を研究したことは、再度の転換であつて、從來或る學問の補助學として存在したものが、こゝに初めて一の學問として獨立したとも言ふ事が出來る。これ全齋の音韻學上に於ける功續である。「漢呉音圖」は、從來「磨光韻鏡」(別項)と並んで、江戸時代に於ける音韻研究の雙璧と稱せられたもので、岡本保孝・東條義門・黒川春村等の學者に大なる影響を與へたものである。併しその所説は卓見も少くないが.誤謬も亦少くない事が近時明かにせられた(漢呉音圖參照)。
【著作】漢呉音圖(別項)三卷
○音徴不盡一卷(大正四年、「漢呉音圖」と共に活版に附せらる。自序に文政癸未(六年)とある。『漢呉音圖」の不備を補つたものである。なほ活版本は「天保十二年七月、石橋眞國」の奥書のある本を底本とし、他の一異本を以て校合したものである)
○同窠音圖一卷(大正四年、濱野知三郎校訂刊行「漢呉音圖」の不備を補つたものである。成稿年時未詳)
○音圖口義一卷(大正四年、濱野知三郎校訂し「全齋讀例」と合冊して刊行。「漢呉音圖」の不備を補つたものである)
○全齋讀例一卷(大正四年濱野知三郎が校訂し、「音圖口義」と合册して刊行す。説文の形聲の文字の説解を、「某ハ某ニ从フ、某ノ聲」と讀むのは惡い。「某ハ某某ニ从フ、聲ナリ」と護むべきである事を攷へたものである)
○韓非子翼毳二十一卷(享和元年稿成る。天明三年五月序成る。文化五年刊。「漢文大系」に收む。「韓非子」の註である。十數年の研究の結果に成つたもので、頗る勝れた書である)
○重修/韓非子翼毳二十六卷十一冊(寫本。狩野直喜蔵)
○忠孝圖一枚(寛政六年八月成。活版本「音圖口義、全齋読例」の卷頭に收む)
○契利斯督記二卷(寛政九年五月序成『續々群書類從宗教部所收)
○格非篇一卷(寫本。黒川真頼・東京文理科大學等に所蔵)
○俗語解卷數未詳(零本 松井簡治蔵)
○名實篇一卷(所在不明)
○呂氏春秋折諸十卷(所在不明)
○墨子考要四卷(同)
○古今諺叢三十二卷(同)
〇三千字文三卷(同)
○全齋走筆八卷(同)
○立教詳義巻數未群(同)
○俚言集覽(別項)。
【參考】太田全齋傳 亀田次郎(國學院雑誌一一ノ二・三、一七ノ六)<a href="http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kameda/kamedaoota.pdf">*</a>
○太田全齋に就きて 本城賫(國學院雑誌 一一ノ八)
○太田全斎先生年譜<a href="http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ingaku/kangoonzu/zensainenpu.pdf">*</a> 濱野知三郎(刊本「音圖口義、全齋讀例」所收)
○字音研究史上ノ太田全齋翁ノ位置<a href="http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ingaku/kangoonzu/zensaiiti.pdf">*</a> 岡井愼吾(活版本「漢呉音圖説」卷末所收) 〔亀田〕
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/daijinmei/O/o154.html>
オホタゼンサイ 太田全齋 印刷術功勞者。
名は方、字は叔、龜八郎と稱す。備後福山藩の人、天明八年文學に命ぜられ文化年中側用人勝手掛年寄格となる。太田錦城と友とし善し。師承歿年共に詳ならす。著書には韓非子翼毳、漢呉音圖、呂氏春秋折諸、墨子考、名實論等あり。就中韓非子翼毳の如きは天明三年五月中既に脱稿したれども家貧にして上木すること能はざりしが、會々都下巣鴨にある藩邸の近傍に火災あり。全齋亦邸内に在りしかば思らく、若し不幸にして原稿中に炎厄に遇はば多年の辛勞水泡に歸すべしと。是に至り上木の念勃として止まず。乃ち享和元年の冬、玉河某造るところの佐坦氏の藏せる活字二萬餘を得たり。されど木子不良にして參差凹凸あり。五日を費して僅に一張す。工力を要すること多きを以て工人に命じて悉く之を整理せしめ、且不足を補ひ通して三萬餘個となし將に印刷に着手せんとするに際し、其妻病に罹り年を越えて癒えず。五子あり。尚皆幼冲、季女乳を求むるも與ふる能はず。水爨採らざること二年、此間にありて兒女を提携して自ら炊爨を司り病婦を看護す。衣裘破るも補ぜす、且飯櫃數々空し。時に姪鹽田氏の財を借りて僅に餓を免れたることあり。既にして長子周藏年十三、稍剞劂を助くるを得るに至る。妻の病も亦尋で癒えたれども全齋公私の事務繁くして印刷に專なる能はず。功更に進まず。家人漸く之を厭ふに至る。全齋屈せず遂に七年の星霜を經て文化五年夏業始めて成る。學に忠なる全齋の如きは盖し稀なリといふべし。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/kokusyokaidai/k1/kokusyo_ka118.html>
◎太田方は備後國福山の藩士にして、通稱を八郎といひ、全齋と號す。儒を學びて、殊に音韻學に通じ、發明するところ少からず、「漢呉音圖」を著せり。藩に仕へて年寄格たりしが、文政六年癸未〔二四八三〕正月二十七日致仕せり、
〇亀田次郎「太田全斎伝」(『国学院雑誌』 明治三八年二月・三月、四四年六月)<a href="http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kameda/kamedaoota.pdf">*</a>